『娯楽指数』に思う。


『娯楽指数』という言葉を知っているだろうか?
俺が作った言葉なので、知っているわけは無いとは思うが、なんとなく想像は出来るだろう。
雰囲気だけで作ったので、意味合いはまちまちだが、要は『物事を楽しむことの出来る能力』の事である。
別に『娯楽能力』でも『娯楽数値』でも良かったのだが、なんとなく『指数』の方が、頭良さげに思えて。
そこで今回、改めて辞書などひいてみる。
うわ、結構意味違う。
頭、悪げ(笑)。

 まあ今更訂正してもしゃー無いので、このHPでは『娯楽指数』と表記する。
知恵蔵2002(朝日新聞社・2650円)にも載ってなかったので、多分俺の造語。
意味を俺が決めても良いと思うのだ。
『指数』の意味合いがずれてるような事には気にしない。
それは『娯楽指数』が低い(笑)。



 最初に断って置かなければならないのが、これはあくまでも『俺の』娯楽指数の話しである。
娯楽の対象や楽しみ方が千差万別であるので、別に俺が基準な訳ではない。
むしろ俺のマブと、夜毎素手で殴り合うような話の中で、「俺って間違ってる?」と思うようなことも多い。
ま、『間違ってる』と解ったとしても、このまま生きて行くのだが。

 娯楽指数とは、物事を楽しむことの出来る能力の指数である(←ちょっと意味変わった)。
俺にとって娯楽指数が高い行為として、『物事にいちいち突っ込まない』が挙げられる。
これはフィクションを楽しむ上で、非常に重要だと思うが、皆さんはどう思うか?
『現実』と『フィクション』が違うのは当たり前だが、それを魂で理解するのは結構難しい。
観客はいつでも『リアル』の中に生きているから。
『リアル』と食い違う事が作品に出てくると、それが引っかかってしまうのはよーく解る。
解るぞ、うん(笑)。

 だが俺は、『現実』から手を離す。
手を離して『フィクション』に、全面的に身を委ねるのだ。
そうすると、なんと楽しい事か。
つまらない突っ込みなんか忘れてしまえるのだ。
この時点まで書いて、既に例え話が多くなる事におののきつつ、例え話などしてみよう。


 有るところにゾンビの活躍する映画が有る。
心踊る虐殺方法で、地域住民の平穏な生活を踏み潰していくのだ。
普段はいがみ合っている男女の若者が、そのゾンビに立ち向かったりして。
最終的には愛し合ったり、キスシーンでハッピーエンド。(←ゾンビはどうなった?)
地中から腕が伸びてくるラストも忘れない。
ここまでそつの無い映画(?)なのに男女の使う銃が、リロード(再装填)もせずに打ちまくられたとしよう。
銃好きな人間は、そこに突っ込んだりする。
なんと無粋な(笑)。
いーじゃねーか、そんなん。
てか、そこに突っ込む前に、突っ込む大ポイントが有るだろうに。
「ゾンビなんていねーよ」って。

 お気づきだろうか?
ゾンビ映画なのにゾンビの存在を否定すれば、そのフィクションは成り立たなくなる。
ゾンビの存在を許容しておきながら、リロード無しで打てる銃は甘受できないのだ。
そんな人間は俺から、『娯楽指数の低い人』という烙印を押される事に成る。
勿論これは、程度問題と言う事かもしれない。
いくらゾンビ映画だといって、『普通の人間』と設定されているキャラの頭部に銃弾がめり込んで、それでも元気に生きてたら、俺だって突っ込む(笑)。
なんらかの説明がされていれば、話しは別なのだが。


 もう一つ例え話。
シリーズ物のマルチエンドのゲームがあったとしよう。
てか、とらハのことな(笑)。
夜の一族やらHGSが出てきて、それには萌えるのに、川でバスが釣れるのが許せない。
なんと娯楽指数の低い(笑)。
あの世界では、バスは川でも釣れるんだよ。
むしろそんなSS書くね、俺は(笑)。
御神流とか神咲各派の矛盾を突く人も多いが、なんで『それはすげぇ!』で留めて置けないものか。

Q・御神流の技はどんな技か解りません。
A・すげー技。
Q・現実的には、どんな技なんですか?
A・現実には無い、すげー技。
Q・描写が足りないと思うのですが?
A・描写できない、すげー技。

言うまでも無く、とらハは『フィクション』である。
フィクションであるが故の功罪は有るだろうが、それを俺は丸ごと愛するのだ。
別に漫画家から尻尾が生えようが、先祖がペンギンだろうが構わないのだ。
陵辱EDも、『ああ、選択肢を一つ間違えるとこんな事にぃぃぃ!』と、自分を戒める。
世界を丸ごと愛しているから。



 いちいち断るのもアレだが、これはあくまでも俺の考え方である。
なにをどー言っても、気に成る人は気になるだろうし。
そーゆー人は、『フィクション』に『リアル』で突っ込めば良い。
別にそれ自体は否定しない。
わりと寂しい能力だとは思うが。
勿論、フィクションの世界にも、秩序は必要だろう。
特にシリーズなんかだと、矛盾が気に成るのも解る。
だが、そこから手を離してみよう。
きっと違う世界が開ける………かもしれない。

 そして『フィクション』と『フィクション』を比べる意味も、あまり見出せない。
フィクションなんだから(笑)。
映画によっては核の威力が違う事など、日常茶飯事である。
そこをいちいち突っ込んでいたりしては、楽しむ事など出来ない。
少なくとも俺は。
現実の核の被害とは、違うのだ。
放射能の事を爽やかに忘れるのは、むしろ男らしい態度と言える(笑)。
俺の会社の上司の身内に、被爆者の方が居て、核がどんなに惨い事かの一端を知っている。
だが、『現実』と『フィクション』は違うのだ。
ノンフィクションやドキュメンタリーと言えども、その呪縛から逃れる事は出来ない。
人の目を通して語られた『現実』は『リアル』では無い。
己の『現実』を構築するための、手助けにしなければ成らないとも思うが。


 この意見を聞いて、「思考を止めている」と思うかもしれない。
だぶん、そうなんだろう。
俺はフィクションを楽しむときに、『リアル』は邪魔だと感じるタイプだから。
『リアルっぽい』と『リアル』は違うのだ。
娯楽指数が高ければ高いほど、物語を楽しめる。
フィクションにリアルを求める行為は、己の娯楽指数を低くしてしまうのだ。
『フィクションを直視する』。
それが俺は一番楽しい。
世界を丸ごと愛せるから。
フィクションは『非現実』なのだ。
解っていても理解するのは、結構難しい。





『娯楽指数』に思う。
人生を楽しむため、娯楽を愛する行為は、非常に大切だ。
娯楽無くして、なんの人生か。
楽しみ方はそれぞれとは言え、無粋は成るべく排除した方が、よく楽しめる。
楽しむために、『娯楽指数』を高めよう。
人生を軽やかに生きるために。

 
 あと……俺の考え方は、作り手とかメーカーには、非常に楽だろう(笑)

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