「早っ」

 思わず摩理まりに突っ込んでしまった。

「そ、そんなこと、私に言われも〜」
「そりゃそうだけどな。でも、前代未聞だぞ、この早さ」
「……確かにねえ〜。百地の歴史に残る、大失態だよね〜」

 昼休みに、しかも教室前の廊下でする話じゃないと思うが、これはこれでしょうがない。
 しかし……もうかよ。
 前フリも何も、あったもんじゃねえな。

「で、なんでそんな事になったんだって?」
「解らないの〜」
「解らない?」
「うん〜。だって矢代やしろ派全員、消えちゃったんだもん〜」
「……全員?」

 俺は思わず呆れてしまった。
 矢代派とは、百地の中でもそこそこ大きな流派で、主に情報を引き出す役割を持つ忍軍だ。
 有体に言えば、百地の拷問係である。
 俺も昔、矢代派の拷問を受けた事がある。
 透みたいに、千代女衆のパンツを盗んだ罪で拷問されたわけじゃない。
 もし敵の捕虜になっても、百地の情報を渡さぬようにとの、耐性訓練の一環だ。
 それまでも、色々な流派の戦闘訓練を受けてきて、わりと痛みに強いと自負していたのだが……。
 情けない話しだが、拷問には最後まで耐えられなかった。
 矢代派の拷問には、段階がある。
 松竹梅の三種類だ。
 寿司を注文してんじゃねえとか思ったが、内容は突っ込む気も起きないくらいハードなものだった。
 まず、梅。
 最初、18日間に渡って、豪華な接待が行なわれる。
 逃げられないように縛られて―――といっても、忍者の縛りだ。SMプレイなんかの比じゃない―――、豪華な食事を与えられる。
 和洋中、あらゆる料理だ。
 ちなみに俺はその段階で、3kg太った。
 食わなきゃいいだろと思うだろうが、忍者は逃げるために体力を温存する性質がある。
 空腹で力を失うより、毒や薬の入った食物を摂取した方が、体力的に有利だからだ。
 毒や薬は、耐えればいいからな。
 そうしておいてから、今度は生き埋めだ。
 ぎりぎり身体が折り曲げられないくらいの長細い箱……言うなれば、棺桶に入れられて、土の中に埋められるわけだ。
 勿論食事なんかなし。
 俺も忍者なので、一週間くらいは食わなくても元気なのだが……この生き埋めはきつかった。
 なんせ真っ暗闇なのに……棺桶の内部全体が、ランダムで発光するのである。
 ある時は30秒、ある時は2時間。
 何時光るのか何時光るのかと、精神力が削られていく。
 次に音。
 何のつもりか知らないが、ネット上に転がっていた小説が朗読されるのだ。
 しかも、その朗読の下手な事。
 ちょっと考えてみれば、その辛さが解るだろう。
 何もする事の無い棺桶の中、とてもじゃないけど上手とはいえない小説を、たどたどしい声で読まれるのだ。
 しかも、世のアマチュアネット作家ときたら……作品を最後まで書くってことをしやがらねえ。
 いや、最後まで書く人も居るんだろうけど、そういうのは選ばないのだ。
 何の娯楽も無いから、どんなにつまらなくても一応聞いてしまう。
 しかし展開も拙ければ、読み方も拙い。
 挙句に、4話くらいで『第一部、完』である。
 4〜5話位で、一部も二部もねえだろ。
 このイライラに耐えられる人間なんて、そんなに居ないと思う。
 静寂の方が、100万倍マシである。
 そして止めは、匂い。
 食い物の匂いが、棺桶中に溢れるのである。
 例えば、悪臭なんかだと耐えられると思う。
 嗅いでも認識しないようにすれば良いのだから。
 そんなのは、忍者の基本である。
 下水道に潜入した時、臭いので耐えられませんでは、仕事にならない。
 だから、匂いと脳を遮断する機能を、忍者は標準装備しているといっても良い。
 しかし……この、食い物の匂いときたら。
 忍者も、一応人間である。
 本当に、一応、だが。
 食わなくても二週間くらい行動可能だが、平気なわけじゃない。
 耐えているだけなのだ。
 それなのに……すんげえ美味そうな匂いが、身体の周りに充満しているのだ。
 知らず知らずのうち、吸引してしまうというもの。
 この誘惑は耐え難い。
 しかも、たまに誰かが食ってる音がするのだ。
 誰だか知らないが、殺したくなってくる。
 この状態が、約十日間続くのだ。
 この俺ですら最後には、聞かれてもいない罪を自供しそうになった。
 そして十日後、ようやく開放されたと思ったら……。
 なんか、途轍もない匂いの食事が出されるのだ。
 不味そうで、毒以外入っていないかのような食事を。
 その食事を口にしたくなければ、情報を渡せ。
 そうすれば、マトモな飯をくれてやろう、とゆう段取りである。
 ここで普通の忍者なら、大概落ちるという。
 不味くても、食事は食事だ。
 しかし食えば死んでしまうかもしれない。
 その葛藤が、鍛え上げられた忍者を落とすのである。
 拷問の基本は、飴と鞭。
 鞭鞭鞭飴よりも、飴飴飴鞭の方が、人の心に大きなダメージを与えるという。
 俺がこの拷問に最後まで耐えられたのは……。
 過去に、もっと凄い食事を見たことが有るからだ。
 なんていうか……地獄の底から汲み上げたんじゃないかってくらい、黒いラーメンを。
 最後に途轍もない匂いの食事を出された時、あれよりは美味そうだなって思ってしまったのである。
 まさに、黒姫くろひめに感謝だ。
 俺が耐えられなかったのは、その次の竹コース。
 なんと、水の上に浮かべた半紙に……。

「ペケちゃ〜ん?」
「……………………」

 摩理の声で、現実に引き戻される。
 危なくトラウマの中の拷問で、涙目になるところだった。

「あ、悪い。しかし、全員消えたってのは?」
「言葉の通り〜。矢代派の家屋敷、就職先、沈み先、全部いなくなっちゃの〜」
「捕縛していた、下っ端どもは?」
「それは……全員抹殺されてた〜。首と胴が泣き分かれ〜」
「ふむ」

 矢代派は、その性質から、特に百地の中枢と関わりが深い。
 なんせ極秘情報を引き出すという事は、その情報を一番最初に手に入れているってことだからな。
 故に矢代派の待遇は、百地の中でも高いという事になる。
 その矢代派全員が、消えた……。

「戦った形跡は?」
「それもないの〜」

 暗殺や拉致の線も無いか。
 いかに拷問に特化した流派だとは言え、百地の忍者だ。
 痕跡も無しに攫われるほど、ぼんやりしてる筈が無い。
 と、すれば、だ。

「百地に牙を剥いた……ってことか?」
「重要参考人を連れてね〜」

 おそらく雑兵どもを斬ったのも、矢代派だろう。
 なんたって、矢代派が捉えていたのだから。
 この間起きた、SIK社襲撃事件の重要参考人。
 百地に……若宇に恨みを抱いていた鉄砲使い……木戸きど飛鳥あすかも、一緒に消えたのである。
 この国全てに広がっている、百地の監視網から。












第八話 『幼女桃色地獄変(前編)』








 情報を渡したから乳を揉めという摩理を無視して、俺は学食に来ていた。
 いつもは若宇を起こす前に買ったパンを齧るか、弁当を屋上で食うのだが……今日は、何の準備もする気にならなかった。
 あれから……SIK社襲撃から、やる気が起きないのだ。
 有体に言えば、落ち込んでいるってことなんだろうけど……。
 自分の甘さが認識できた今、敵が存在するってことか確認できた今、落ち込んでる暇なんか無いはずなのだが。
 まあ、しょうがない。
 どうしてもモチベーションが上がらないのだ。
 こんな時は……。

「……らっしゃい……」

 真田の顔を見るに限る。

「よう真田。順調か?」
「……バイト代に……売り上げは反映しない……」
「そうかい」

 そうなのだ。
 真田は昨日から、学食でバイトを始めたのだ。
 喰代学園の学食や売店は、学生の有志で運営されている。
 仕入れから調理、売上金の分配まで、すべて『学食運営委員会』なる組織で運営されている。
 学園側は、場所を提供しているだけ。
 しかもテナント料を取っているというから、静流様の商魂もえげつないものだ。
 まあ、食堂を利用する学生にとっては、悪い話じゃない。
 入荷する品物やメニューなど、リクエストが通るのだから。
 実際、食堂のメニューの八割は、学生がリクエストした品物である。
 だからホットケーキや牛丼なんてものが、メニューに存在しているんだろう。
 誰が食うんだ、こんな冷たいホットケーキ。
 まあ、冷たい時点でホットケーキじゃないなんて、無粋なツッコミをするつもりは無い。
 作ったときはホットだったのだから。
 まあ、この理論で言うと、溶けてもアイスはアイスって事に成ってしまうのだが。

「……珍しいわね……石川十哉が……学食なんて……」
「ん、ああ。なんか、な」
「…………………………注文は?」
「カレー」
「……ん……」

 少しだけ真田は頷いて、手元のキーボードを叩く。
 ここはレジで注文したメニューが、自動的に厨房に伝えられる仕組みになっているのだ。
 客はレジで注文して、金を払い、別の場所で品物を受け取る。
 人手を最小限に押さえるための、効率の良いシステムなのだろう。

「300……えん」
「ほらよ」

 俺はあらかじめ準備しておいた500円玉を、真田の掌に載せた。
 白い指が、硬貨を受け取る。
 思わずその手を握りたくなるが、なんとか自粛した。
 白昼堂々、何考えてんだ、俺。

「……私の時給を……超える硬貨を……」
「?」
「……所持する……なんて……」
「……悪い」

 所持しているだけなので、別に悪くは無いのだが、なんとなく謝っってしまった。
 ちなみに真田の時給とは、喫茶店で働いている分の300円の事だろう。
 この学食でのバイトは、昼飯代とバーダーなのだ。
 なんで俺がそれを知っているのかといえば、俺が紹介したからだ。
 俺もわりと、顔が広いのだよ。

「……はい……お釣り……」
「さんきゅ」

 そういって受け取ったのは……銀色の硬貨、一枚だけ。
 100円玉だ。
 十哉君は、500円出して、300円の品物を買いました。
 さて、お釣りはいくらでしょう?
 答え、100円?
 さて、誰が間違っているでしょう?
 一番、俺。
 二番、真田。
 三番、社会。

「おい」
「……釣り銭切れ……」
「嘘付け」
「……………………ちっぷ……………………」

 学食でチップが必要なのであろうか?
 手でも握って元を取ろうとも思ったが、師匠っぽいので止める事にする。
 まあ真田も、ジュースくらいは飲みたいだろうからな。
 真田は、学食で飯を食うのはただでも、自販機まではただじゃないのだ。
 当たり前か。

「解ったよ」

 なんとなく浮かんだ苦笑いと共に、俺は品物カウンターまで歩き出した。
 しかし、なんで真田はああまで、金に執着するかな?
 一応生活には困らないはずだが……ああ。
 学費とか、服代とかあるもんな。
 俺が洗う真田のパンツは、新品ばかりだった。
 きっとこの街に来る時に買ったのだろう。
 ……………………まてよ。
 ということは、来る前は……。

「あれ?」

 想像していたエロCGとは異なった品物が、カウンターに置かれていた。
 いや、想像通りのものが出てきても困るけど。

「なあ、ちょっと。これ、俺の注文した品物じゃねえぞ?」
「えー? そんな事無いですよぉ、石川先輩♪」

 カウンターの中から顔を出した下級生が、顔を赤らめながら反論してきた。
 だがしかし、皿の上に載っているのは、注文したカレーじゃない。
 いや、カレーはカレーなのだが、カツが乗っている。
 所謂、カツカレーって奴だ。

「しかし俺が注文したのは、プレーンのカレー……」

 そのとき、耳に届く声があった。
 一般人には聞こえまい、忍者独特の話術、麦食むぎはみで。

【……食べて……】

 声の方を向くと……少しだけ頬を赤らめている、真田の表情。
 そっか。
 そういうことか。

【さんきゅ】
【……ん……】

 照れ臭くて視線をそらしたまま、俺はカツカレーを受け取った。
 普通にしてるつもりなんだが、バレバレですか。
 SIK社襲撃事件。
 俺は、百地を……若宇を護れなかった。
 師匠や親父がいなかったら、俺も真田も母さんも若宇も死んでいたからだ。
 己の甘さ。
 そのことが俺の胸に、小さな棘の如く刺さっている。
 失敗しても、次成功すればよい。
 俺の任務とは、そんなに生易しいものではないのだ。
 改めてその事に気付いたのである。
 テロを防ぐという事。
 それ自体は、不可能であるといってよい。
 今この瞬間も、狙われているのかもしれない。
 もしかしたら、学園に爆薬が仕掛けれ、『城崩しろくずし』が起きる瞬間なのかもしれない。
 確かに百地の警護は、深夜の学園までカバーしているが……。
 やろうと思えば、いつでも出来るわけだ。
 例えば、通学路。
 例えば、コンビニ。
 例えば、バス。
 若宇が立ち寄りそうなところに、爆発物を仕掛ける。
 それを防ぐ術は、皆無だといってよいだろう。
 極端な話し、初めて立ち寄る場所にでも、以前から仕掛けて置けばよいわけだ。
 1960年代、世界中でテロが横行した時代。
 ある国の幹線道路で、約180個の爆弾が見つかった。
 それは誰を狙ったわけのものでもなく、ただ設置していただけの物だったのである。
 ターゲットになる人物が世に現れて、その場所を通るまで、爆弾は眠り続けていたのだ。
 まあ、厳密に言うと、テロを防ぐ方法はある。
 テロリストに従えばよいのだ。
 それが出来ないから、テロリストが生まれ……。
 それが出来ないから、俺が存在する。

 ごきり。

「ぐはぁっっっっ!?」

 なんか鈍い音がした。
 この音は、手首の関節ごと、骨が砕ける音。
 そちらの方を見ると、真田が見知らぬ男の手を取っていた。
 いや、砕いていたのだ。
 カツカレーの皿を持ったまま、レジへと舞い戻る。

「なにしてんだ、真田?」
「……この男性が……私の手を握った……」

 地面に突っ伏した、やけに髪の長い太った男の手を見る。
 おーおー。
 見事に砕け散っていた。
 漫画やアニメなんかじゃ、骨を折るなんてシーンが頻繁に出てくるが、実はかなり危険な事なのだ。
 折れた箇所によっては、一生障害が残る可能性があるし、骨が折れた瞬間ショック死する事もある。
 もっとも骨というのは、ある程度の弾力性があるので、そう簡単に折れることは無い。
 それを、こんなにも容易く。
 侮れない女だ。
 やはりさっき、自粛しておいて正解だったな。
 欲望が無くならない限り、テロは起こるし、カウンターテロも必要になってくる。
 今、手首を押さえてうずくまっている男が、良い例だ。
 まあ今のは、テロって言うよりも痴漢だが。
 間違っても真田の事を、満員の電車になど乗せてはいけないな。

「手加減してやれよ。一般人相手だぞ」
「……手加減したから……手首だけで済んだ……本当なら……首を折る……」

 恐ろしい女だ。
 やっぱり、黒姫属性なのか?
 ちなみに黒姫とは、黒い姫の事だ。
 妹に猫姫ねこひめがいる。
 俺は男を食堂の外に出して、たまたま廊下を歩いていた、いつも蒼い顔をしている細身の数学教師に引き渡した。
 不幸な事故だから、俺の方から百地に報告しておく、と伝言してだ。
 百地の管轄と言えば、教師たちが警察に報告する事は無いだろう。
 この学園も、『百地』なのだから。
 勿論、この男がどこかに訴えようとしても、結果は同じ。
 この町全体が、『百地』なのだ。
 それを真田が理解しているかどうか知らないが。
 まったく面倒な女だぜ。
 厄介な女は、厄介な奴らの周りに集まるのであろうか?

「はぁ……なんか疲れた」

 後始末を終えた俺は、食堂に舞い戻った。
 せめて、飯ぐらいはゆっくり食いたいのだが。
 さっきまで湧きかえっていた野次馬たちも離散し、真田の姿も見えなくなっていた。
 一瞬、バイトを首になったのかと思ったのだが、良く見ると『販売終了』のプレート。
 学生が経営しているので、この学食には注文のタイムリミットがあるのだ。
 調理担当も、レジ係も、飯食わなくちゃな。
 ちなみにこの後、皿洗い担当が来るはずだ。
 完全分業制の学食。
 俺も早く飯を……と思ったら、いつのまにか俺の手には、カレーの皿が無かった。
 あれ?
 いつ手放したかな……と思っていると、一番端のテーブルから、麦食みが聞こえてくる。
 見ると真田が、俺の皿をテーブルに置いていた。
 場所取ってくれたのか。
 一般人には聞こえないようにとの配慮で、麦食みで呼びかけたのだろうが、生憎とこの学園には、忍者予備学生が数多く在学している。
 元論さっきの麦食みも、誰かには聞こえているはずだ。

「さんきゅ」
「……ん……」

 好奇に満ちた同業者たちの視線を無視しつつ、真田の向かいのテーブルに座る。
 軽く鼓動するする心臓を押さえながら、テーブルの上を見ると……。
 もう食欲が失せていた。

「……なに……?」

 圧倒される量。
 大盛りカツ丼とナポリタン、あぶらあげに卵と肉とかき揚げてんぷらが乗ってるうどん、ダシ巻き卵にさわらの煮付け、中華サラダとお新香5点盛り。
 缶入りのレモンスカッシュに、不味いと評判のミントパフェ。
 バランス良さ気だが、身体には悪そうだ。
 食い過ぎで。

「いや、なんでもねえ」
「……そう……。……頂きます……」

 そう呟くいた瞬間、真田の箸が消えた。
 ……見えねえ。
 箸が見えねえ。
 背筋の伸びた良い姿勢だが、箸が見えねえ。
 俺はため息を付いた後、真田がカツを乗せてくれたカレーにスプーンを差した。
 どうでもいいけど、カツカレーの値段って、350円なんだよな。
 50円は、マジでチップか。
 てゆうか、別に真田のおごりじゃねえよな。
 このカツカレー。







 真田に後れること、三分後。
 ようやく飯を食い終り、何気なく視線を窓の外に移す。
 窓枠の向こうで、右往左往する女がそこに居た。
 女って言うか、リスだ。

「何してんだ、アイツ?」

 俺の台詞に、真田も窓の外を見る。

「……慌ててる」

 いや、そりゃそうだがよ。
 問題は何故慌ててるかってことじゃないのか。
 あまりにも珍しい光景に、学食の窓を開けて叫んだ。

「らみー。どしたー?」

 俺の姿を確認したらみが、ダッシュで駆けて来た。

「ぺ、ぺ、ペケちゃぁんっ!」
「……ラップ調……」
「そこに突っ込むなよ、真田」
「そんな事言ってる場合じゃないの!」

 ……。
 らみの見せる、切羽詰った顔。
 こんな表情、見たこと無い。

「どした?」
「若宇ちゃんが……若宇ちゃんが大変なのっ!」
「案内しろ」

 俺は窓を蹴って、外に飛び出した。
 何があった?
 襲撃事件で解った事だが……若宇には敵がいる。
 それが誰なのか解らないが、かなり大規模な組織だといえよう。
 SIK社に仕掛けられた爆弾。
 師匠と親父が無効化してくれたが、あれはとんでもなく高性能な爆弾だったらしい。
 特殊な振動を発しながら、ビルの四隅を撃ち抜くように仕掛けられていたという。
 発動したら最後、ビルが崩壊するまで爆弾が止まる事は無い。
 一個人や普通の忍軍が所持できるような、生易しいものではないのだ。
 しかも、百地内部で抹殺されていたテロリストの手先。
 そして、消えた矢代派と……木戸飛鳥。
 敵が組織じゃないと、この仕事は成し遂げられない。
 若宇には敵がいるのだ。
 組織立った敵が。
 なのに何故、守護役の俺が一人で飯を食いに来たのかというと……。
 若宇と師匠、静流様に親父に母さん。
 よってたかって、『普通にしろ』と命ぜられたからだ。
 俺的には、四六時中離れないで警護したかったのだ。
 いや、くっついては居たくないんだけどよ。
 でも俺は石川流。
 本来なら、学園も来させたくなかった。
 だが、そんな俺の進言を、大人連中は即座に却下したって訳だ。
 しかも若宇は……。

『辛気くせーから、近寄んな』

 と、来たもんだ。
 だから俺は―――自分の任を放ったらかしにしてる……と言う気持ちを抱えながらも―――命令を聞かざるを得ない。
 それが、こんな形で……。
 やっぱり、何言われても影から見張るべきだったぜ。

「こっちなのっ!」
「応」

 四足でパンツ見せながら走るらみの後ろを、手加減しながら着いて行く。
 俺が全力で走ったら、追い越してしまうからだ。
 瞬発力では負けるかもしれないが、ちょっと長い距離を走るなら俺の方が早い。
 0−15mは負けるかな。
 逸る気持ちを抑えつつ下らない事を考えている内に、いつの間にか体育館が近くなっていた。
 この辺は、人気が無い。
 ……こんなところで、なにしてやがんだ、あの馬鹿。
 狙われてるのは解ってるだろうに……。
 己と若宇に、言いようの無い怒りが湧いてくる。

「そこの角を曲がったところな……」
「応っ!」

 らみの言葉を、最後まで聞かずに追い越す。
 体育館の白い壁。
 そこを曲がると……。

「……?」

 そこに若宇は居た。
 瞬時に判別できるくらい、なんでもない。
 服装が乱れている様子も無ければ、怪我をしている風でもない。
 少しきょとんとした顔をしているが、見た目は何も変わってな……。

「ペケちゃん♪」
「……………………」

 足が自然に急制動を掛ける。
 ぺ、ペケちゃん?
 今の声……若宇か?
 いつもの可愛くない口調ではない。
 まるで……。

「ペケちゃん♪ わかう、おなかすいた♪」
「……………………はぁっ!?」

 若宇は、昔の口調……。
 まるで、幼子のようだった。















「で、どーしてこーなったって?」
「……それがさ」

 夜の戸張が落ちかけた頃、俺と師匠、それに若宇は、喫茶店のテーブルを囲んでいた。
 喫茶店のマスターであるレイナさんは、さっさと『臨時休業デスー』というプレートをドアに掛けて、カウンター奥に引っ込んでいる。
 微妙に肩が震えているのは、若宇の陥った境遇に同情しているわけではないだろう。
 真田もエプロンドレスを装着したまま、レイナさんと向かい合ってしゃがんでいた。
 部屋に引っ込んだりしないところが、真田らしい。
 何の勘の言っても、好奇心旺盛なのだ。
 二人を意識しつつ、集めた情報を師匠に報告すべく対峙する。
 ……この間合いなら……無理か、やっぱ。
 俺の打撃が、まともに入った事など無い。
 そんなことしている場合でも無いんだけどな。

「なんでも、今日の昼休み……らみと一緒に、裏山に入ったんだってよ」
「裏山って……学園のか?」
「ああ」

 らみと純は、家の都合で帰宅しているのだが……らみから聞いた理由によると。
 本日若宇は、大変腹を減らしていたらしい。
 何故なら俺が今日、弁当を作っていかなかったからだ。
 気付かなかった。
 そっか……俺今日、弁当作ってなかったんだな。
 でも、俺と口を利きたくない若宇は、それを言う事も出来ない。
 今月は既に小遣いを使い切っているので、昼飯を買う金も無い。
 そんな若宇に、『裏山に行けば食べられるもの、一杯有るの』とアドバイスしたのが、らみであった。
 こんな春先、野草くらいしかないだろうと思うが、らみには秘密のスポットがあったらしい。
 一年中、あらゆる果実が成っている場所。
 通称、『全てが緑一色オールグリーン』とか。
 何が元ネタだか、さっぱり解らん。
 それは兎も角、そこに案内された若宇は、ある果実を見つけた。
 今まで見たことも無いような、青い果実。
 らみも見たことが無いそれは、直径5cmの楕円形で、表面に毛が生えていたという。
 見た目は、真っ青で毛の長い大き目のキウイだったというが、そんな怪しげなものを、よく口にする気になったもんだ。
 ともかく若宇は、嬉々として青い果実を頬張った。
 なんでも、すっぱくて苦くて、でも甘かったという。

「そんで?」
「……それで腹一杯怪しげな果物も食ったし、昼休みも終わるってんで、教室に戻ろうと二人そろって歩き出したら……」

 徐々に若宇の歩く速度が、遅くなってきたという。
 様子のおかしい若宇の顔を、らみが覗き込んだら……いきなり泣き出したのだ。

「なんで?」
「……なんか……知らない人だと思ったらしい……」

 そうなのだ。
 若宇は、らみのことを忘れていた。
 いや、忘れていたってのとは、ちょっと違うか。
 今の若宇の中では、らみと出会っていないのだろうから。

「てゆーことは……」

 師匠が、傍らに座っている若宇の頭を撫でた。
 若宇は嬉しそうに、ニコリと笑う。
 ……違和感……。

「若宇、今いくつだ?」
「いちゅちゅ♪」

 ……………………。

「くスくスくスっ♪」
「……レイナさん……笑っちゃ……面白いですよ……」

 カウンターの方から、ひそひそ話しが聞こえてくる。
 何故だか俺が赤面した。

「……だっテー……あのトーちゃんの、顔……」
「夜……寝ようと部屋に入ったら……インテリアがバロック調になってた……そんな表情ですね……」
「リアルー♪」

 そうか?
 俺には解り辛いんだが。

「で、十哉よ」
「……はい……」
「この失態、どー責任取るつもりだ、オイ」
「……………………」

 それが一番辛いのだ。
 正直、俺がどんな責任なのか、解説することは出来ない。
 百地である若宇から、離れろって言われたら離れるしかないし、若宇が拾い食いするのまで責任は持てない気がするのだ。
 なんでもかんでも俺のせいにされちゃ、困るんだが……。
 元はといえば、俺が弁当を作らなかったことに、原因があるわけだし。
 そもそも弁当を作らなかったのだって、襲撃事件の影響で落ち込んでいたのが発端だ。
 その襲撃事件で落ち込んでるのは、俺の読みが甘かったのが起因してる。
 やっぱ……俺のせいなのか……。
 そんな俺の表情が解ったのか、師匠が ニパッと笑った。

「いや別に、全てにおいてお前に責任があるって言ってる訳じゃねーぞ」
「……」
「若宇がキテレツな果実をもいで食うのまで、お前に責任があるとは言ってねー。学生の頃、良く静流も逃げ出してよー。その度に康哉が、責任を感じて落ち込んだもんだ。でも俺はなー。それって違うと思うんだ。どんなに優秀なボディガードでも、裸で冬の街をねり歩く趣味がある奴に、風邪を引かせない事なんか出来ねー」
「……でも……」
「そう。でも、お前は百地の守護者だ。風邪引いたのはしょうがねー。じゃあ、どーする?」
「……どおするって言われても……」
「お前が治せ。てゆーか、看病しろ」
「……………………はあ?」

 俺が?

「お前のことだから、野口のぐち衆には見せたんだろ?」
「……ああ。原因不明の一言で追い返されたけど」

 野口衆とは、百地の中で医療に携わっている衆派のことだ。
 そこら辺の医者よりも腕が良いし、なにより非合法な怪我や極秘の患者を見せることが出来る。
 ちなみに、医術に長けた忍者の事を、医忍と呼ぶ。
 医者と忍者の合成語みたいで―――実際、その通りなのだが―――気が抜けるが、その実力は侮れない。
 医術に長けているってことは、毒物や人体解剖に秀でているってことでも有るから。
 俺は午後の授業をキャンセルして、野口衆に見せていた。
 医者を嫌がって、若宇が泣く泣く。

「じゃあ、しょうがねー。若宇が元に戻るまで、お前が面倒見ろ。てゆーか、お前が元に戻せ」
「……」

 何で俺が……そう言いたかったが、ぐっと我慢した。
 原因は、俺に在るのだから。
 押し黙った俺を見て、了解したと踏んだのだろう。
 師匠は満足そうな笑みを浮かべ、レイナさんたちのいるカウンターへ向かった。
 しかし……どうやってこんなの、元に戻せってんだ?
 早速途方にくれて、若宇を見る。
 オレンジジュースの入ったグラスを、嬉しそうに傾けていた若宇が、俺と視線を合わせた。
 俺の視線が解ったんだろう。
 こういうところは、元のままなんだな。

「ペケちゃん♪ おなかすいた♪」
「……解りました、若宇様。ただいま夕餉ゆうげの支度を」

 ……?
 一瞬若宇が顔をしかめた。

「なんでペケちゃん、そんなへんないいかたするの?」
「……」

 ……さて、どうしたもんか。
 さらに途方にくれてると、後方のカウンターから、師匠たちの声が聞こえてきた。

「しかしよー。いつかあるあると思ったが、まさかこう来るとわなー」
「……大河サン、予想してタノ?」
「いや、予想するだろー。人格交代ネタと、記憶喪失ネタは、一回くらいあるだろうと思ってた」

 ……………………。
 ネタて。

「アっ、ワタシもー♪ 体型が変わらナイのは、不思議デスよネー♪」
「確かになー。完璧の幼女になったほーが、客層も広がるってもんだがなー。不思議だ」
「……変わった方が……不思議なんですけど……」

 ……………………楽しんでるな。
 どうしたもんか。










 取り敢えず、途方にくれていても埒が開かないので、若宇をダイニングキッチンに引っ張っていった。

「……ペケちゃん、ごはんー」
「御意」
「……………………」

 俺の返事を聞いた若宇が、顔をしかめる。

「そんなしゃべりかた、やだー。ペケちゃんのおとーさんみたいだよ?」
「……………………」

 どうしたもんか。
 少しだけ泣きそうな若宇の表情を見てると、俺が悪い気がしてくる。
 かといって……ええいっ!

「解った解った。普通に喋ろうな。……わ、若宇……ちゃん」
「うん♪」

 やけくそを選択してみた。
 ちなみに俺は、若宇のことを『若宇ちゃん』などと呼んだことは無い。
 昔は……なんて呼んでたんだっけな。
 …………………………。
 ああ、そうか。

「で、わかちゃん。何食べたい?」
「はんばーぐっ♪」

 ハンバーグ、ね。
 そう言えば若宇は昔、ハンバーグとかオムライスとかが好きだった。
 若宇を喜ばせたくて、必死に静流様から習ったんだよな。
 今じゃ滅多に作ることも無くなったが―――成長してからの若宇は、渋い和食党なのである―――、作り方は今でも覚えている。
 俺は冷蔵庫の中から、合びき肉と卵を取り出した。
 オムライスも作ろうと決めたため、卵は4つだ。
 コレステロール溜まりそうだな。
 薄れ行く記憶と格闘している時、若宇が話しかけてきた。

「ねえペケちゃん?」
「なんでしょ……なに?」
「とーるちゃん、きょうはこないの?」
「……ああ。もう遅いから、家に帰ったよ」
「なんだー。いっしょにあそぼーっておもったのにー」

 昔、透もしょっちゅうここに来て、いっしょに飯を食ったもんだ。
 忍者の子供は基本的に、一般人とは違う食事を取る。
 様々な漢方薬と、カロリーの高い食材を併せた、忍者食の一つだ。
 だが静流様は、それじゃ寂しいからと、色々な工夫をしてくれた。
 色取り取りで、華のある食事。
 俺はそれを作ろうと、必死に覚えたし、透はその御相伴に与ったわけである。
 ちなみに透は、危険な発言をしそうだったので、早々に退場させた。
 今の若宇に、今の透を合わせるのはヤバ過ぎる。
 守備範囲広いからな。
 約二十分後、食卓の上を色取り取りの料理が染め上げる。
 ハンバーグ、オムライス、マヨネーズであえたポテトサラダ、オレンジジュース。

「さ、食べな」

 足をプラプラさせながらも、大人しく待っていた若宇が、瞳を煌かせた。

「うん♪」

 皿の上に乗ったオムライスを、スプーンで崩そうとしたとき……若宇の手が止まる。

「どした?」
「ペケちゃんは、たべないの?」
「……………………」

 そう言えば、そうだったか。
 今でこそ俺は、若宇と食卓をいっしょにする事は無い。
 給仕もしなければならないし、食事中に間者が襲ってきても、それに対応するためだ。
 飯食ってても反応は出来るが、やっぱり遅れることが有るし、第一俺は若宇の家族ではない。
 食卓は、家族で囲むもんだ。
 だけど……そうか。
 昔は一緒に飯食ってたんだよな。

「……たべないの……?」
「あ、ああ。勿論食べるよ」

 そう言って俺は、別に作っておいた皿を並べだした。
 悲しそうだった若宇の表情が、晴れやかに一変する。
 ……まあ良いか。
 本来ならこれは、師匠の分なのだが。
 壁の向こうでゲラゲラ笑われているのは気分が悪いので、飯抜き決定。
 女性陣の分は在るし。
 皿を並べ終えた後、若宇と向かい合って腰を掛ける。
 昔と同じ位置。

「じゃあ……頂きます」
「いただきまーす♪」

 嬉しそうに若宇がスプーンを動かす。
 俺は……。
 なんとも微妙な気持ちを抱えたまま、若宇の嬉しそうな顔を見ていた。








「じゃあ、俺、帰るから」
「え―――っ!?」

 師匠たちの飯も食い終わり―――結局作らされたわけだ―――食器洗いも終わったので、そろそろ帰ろうと思ったのだが。
 いきなり若宇が、袖にしがみついてきた。
 きゅって。

「な、何だよ」
「かえっちゃ、やだーっ!」
「やだーって言われても……」

 ああ、そうだった。
 俺が帰ろうとすると若宇は、いつもこうだったな。
 今じゃ俺が帰ると宣言しても、テレビや漫画から目を放しやがらねえ。
 いつから変わったんだろうな。
 このまんま成長してたら、俺ももう少し優しく扱ってやるのに。

「きょう、おとまりしてー」
「……………………はあっ!?」

 思わず頓狂な叫びを上げてしまった。
 お泊りってお前……幾つだ?
 あ、いや、五つなのは理解出来るんだが。

「ほう……それはおもしれー♪」

 玄関の向こうから、師匠が飛び出してきた。
 わざわざそんな所で、待機してんなよ。

「なー若宇。お前は、十哉と一緒に寝たいんだよな?」
「うん」
「お風呂も一緒だよな?」
「うん♪」
「ちょと待てや、コラっ!」

 そりゃいくらなんでもマズいだろ。
 確かに俺は、若宇にはなんの好意も持ち合わせていない。
 ぶっちゃけ、いなくなってくれたらどんなに良いかと思ってるくらいだ。
 しかし……一緒に寝る?
 ましてや風呂?
 マズいだろ。

「なんでー?」
「……なんで……って言われても……」
「きのうもいっしょにはいったよ? いっしょにねたよ?」
「……………………」
「……………えっちだ……………」

 不穏な声に振り向くと、そこには頬を染めた真田が居た。
 前門のししょう、後門のさなだ

「い、いや違うって真田っ! 昨日って、いや……こいつの感覚では昨日かも知れんが……十何年も前の話だぞっ」
「……そうかしら……」
「おねーちゃん……だれ?」

 俺たちの間に、若宇が顔を突っ込んできた。
 自分が無視されるのは、この頃から嫌いだったのか。
 今になると見えるものも多いな。

「……………………」
「……………………」
「ねー。だーれー?」
「……………………」
「……………………」

 唖然とする俺たちだったが、ある考えが閃いた。
 そうだそうだ。
 厄介事は、人に押し付けるのが一番。
 それも師匠の教えだ。

「わかちゃん」
「ん?」
「この人は、わかちゃんのお世話をするお手伝いさんだよ。この人のお風呂入れてもらいなさい」
「……ちょ、ちょっと……石川十哉……?」
「えー!? やだぁっ!」
「やだじゃありませんっ!」

 俺は若宇の腕を掴んで、真田に引き渡そうとした。
 しかし若宇は、力いっぱい反抗する。
 なんてえ力だ。
 頭の中は五歳児でも、力は別らしい。
 まあ普段も、五歳児みたいなもんだけどな。

「……石川十哉……私も……嫌……」
「なんでだよ?」

 背後で苦々しい表情を浮かべている真田。
 こういうときくらい、手伝ってくれてもいいと思うのだ。

「だって……若宇は……えっちなことするから……」
「……………………」

 思わず沈黙してしまった。
 いつ、いやらしい事などされたと言うのであろう?
 なんか、若宇と急激に仲良くなったと思ったら……。
 まさか、そんな秘密が?

「……まあ、過去の事は問うまい。今の若宇は五歳児だから、大丈夫だろ?」
「……嫌……」

 どいつもこいつもっ!
 でもまあ、ここで真田にヘソを曲げられては、元も子もない。
 あまりやりたくは無かったのだが、しょうがねえ。
 最終手段に出ることにした。

「若宇を風呂に入れてくれたら、一週間分の夜食を作ってやろう」

 つまりは、食い物で釣ることにしたわけなのだが。
 これが、真田の見かけとは裏腹に、意外に効果があるのだ。
 もしかしたら、餌付けも可能かも知れん。

「……………………」

 揺れてる揺れてる。
 小首を傾げている真田を、さらに追い込んでみる。

「しかも、生クリーム物、可」
「………………………………………………」

 何故だか知らないが、真田は生クリームが好きだ。
 娘らしくて良いと思うのだが、その摂取量は常軌を逸している。
 一度冗談のつもりで、ボール一杯にホイップした生クリームを出したら、嬉しそうに平らげられた事があるのだ。
 あれは、見てるほうが胸焼けしたぜ。
 姿勢正しく、高速でスプーンを動かす真田。
 普通は口元に生クリームが付いたりして、それが可愛かったりもするのだが、真田の場合はちょっと違う。
 まるでマシーンのように、正確無比に生クリームを摂取していく。
 俺の中の真田のイメージが、だんだん崩れていくんだよな。

「…………解った……」

 ……………………。
 自分で焚き付けといてなんだが、情け無いぞ、真田。
 まあそこが可愛いといえば可愛いのだが。

「じゃあ、わかちゃん。このおねーちゃんと一緒に、風呂入ってくれ」
「やぁだっ!」

 まだ難問が残っていたか。
 若宇は口をへの字に結んだまま、断固拒否の構えだ。
 しかしいくら俺でも、この要求を聞く事は出来ない。
 そんなことしたら、師匠から藍田先生ラインを経て、学園新聞にスクープされてしまう。
 作りこんできた俺のイメージも、パアだな。
 まあ、一緒に入ったから、何だというわけではないのだが。

「わかう、ペケちゃんとはいるっ!」

 五歳児だし、なにより若宇だしな。
 欲望なんて、生まれ様も無い。
 それでもやっぱり一緒には、マズいだろ。

「じゃあ、三人で入ったらいーじゃねーか♪ それがサービスってもんだ♪」
「黙ってろ」

 斜め後方に蹴りを放つ。
 妄想に耽っていた師匠が、俺の蹴りで吹き飛んで行った。
 そして師匠、退場。
 大体、誰に対してのサービスだってんだ。
 …………………………。
 いやまあ、嬉しいかも。
 ……あれ?
 俺の打撃が、初めてマトモに当たった気がする。
 どうでも良い事だが。

「なあわかちゃん」
「やだっ!」

 俺は背を屈めて、若宇と視線を合わせた。
 子供を説得する時には、目線を一緒にする。
 一般的に用いられている仕草だが、実は陰忍の一種なのである。
 甲賀の一忍で、忍者流の催眠術とも言うべき『妖視あやかし』の使い手、邦馬ほうま壱座いちざが確立した技法だ。
 いつの間にか市井しせいに伝わったとされているが、真実は違う。
 国家の転覆を企てて、邦馬流が故意に流したのだ。
 人が人を無理矢理操る。
 それがどんな混乱を招くか、簡単に想像できるだろう。
 邦馬流の企ては、ある時突然消滅したとされているが、その一部は民間に伝承してしまった。
 それが、『話す時は人と目を合わせる』である。
 それまでの作法では、目上の人と視線を合わせるのは失礼だとされていたからな。
 まあ今は、全然関係ない話しだけど。

「わかちゃん」
「……………やだもん………」
「何でやなんだ? レイナおねえちゃんとも、お風呂に入った事あるだろう?」

 まあ恥ずかしい過去なのだが、俺も一緒に入った事が有る。
 あの頃はなんとも思わなかったが、今思い出してみると……。
 レイナさんの身体は、通常の女性よりも細いのが解る。
 記憶力の塊みたいな忍者と風呂に入るのは、例え子供相手でも危険だといえよう。

「だって……」
「だって?」
「なんか……あのおねーちゃん、きらいっ!」

 若宇の嫌悪の視線の先には、真田がいた。
 ちらっと横目で見ると、悲しそうな顔をしている。
 あれは、嫌われた事による悲しみなのか。
 それとも、夜食が無くなりそうなことに対する哀しみなのか、俺には判別できなかった。
 それにしても、若宇が面と向かって人の事を『嫌い』などと言うのは、珍しいな。
 コイツは昔から、人当たりは良かったはずだ。

「なんでだ? 今日初めて会った人だろ?」

 本当は初めてじゃないのかも知れんが、取り敢えずそういう解釈でよいだろう。
 俺がそういうと若宇は、真田の事をじっと見つめた。
 自分でも、何故嫌いなのか解っていないみたいだ。
 だから、理由を探しているんだな。

「……おっぱい……」
「……………………はあっ!?」
「あのおっぱい、きらいっ! おもにおっぱいがゆるせないっ!」
「……………………」

 なんでこの親子は、乳に固執するんだろう?
 横目で見た真田が、震えているのが解る。
 怒りだ。
 見た目は、いつもの若宇だからな。

「わかちゃん。そんな事言っちゃ駄目です」
「……だって……」
「だってじゃありませんっ」

 俺は若宇の肩に手を置いて、じっと瞳を見つめる。
 若宇は嫌がるように、俺から逃げようとするが、肩を掴んで逃がさないようにした。

「わかちゃん」
「いやいやいやっ」
「人に対して、そんな事言っちゃ駄目です。見て御覧なさい。立派な乳じゃ在りませんか」
「……………………石川……………………十哉…………………………」

 …………………………。
 フォローになってなかったか。

「そうじゃなくて。いいか、わかちゃん。あのおねえちゃんは、わかちゃんの事を面倒見てくれようとしているんだよ。そういう人に、そんな事言っちゃ駄目です。ましてや身体の一部だけピックアップするなんて、持っての他」
「いやいやいやっ」
「わかちゃん」
「いやいやっ……」

 首を振って嫌がっている若宇の動きが、段々と遅くなってきた。
 自分でも理不尽な事を言っているのが、解ってきたのだろう。
 若宇は馬鹿だが、卑怯じゃない。
 基本的には、言い聞かせれば解る子なのである。

「わかちゃんっ」
「……ううっ……」
「悪い事したときは、どうするんだっけ?」
「……………………」

 少しの沈黙の後、若宇は俺の袖から手を離した。
 何をするのか解るので、俺も肩から手をどける。
 若宇は躊躇しながらも、真田の前にちょこちょこと歩いていった。

「……おねえちゃん……」
「……………………」
「ごめんなさいっ」
「……………………」

 真田が面食らうのも解る。
 若宇が素直に謝るなんてこと、滅多に無いからな。
 しかも謝る時は、大抵『わりー』だ。
 謝られてる気がしない。
 ちなみに俺は、それすらも言われた事が無いのだが。

「……あの……おねえちゃん……おこってる……?」
「……………………」

 動かない真田を不安に思ったのだろう。
 身長差的に上目遣いになった若宇。
 その若宇を前にして、真田の手が……ゆっくりと動いた。
 掌で、首を……首っ!?

「さ、真田……ゆ、許してやってくれな、な。相手は子供だか……」

 何をされるのか解っていないいないのだろう。
 きょとんとした表情の若宇の首を、真田の白い指が……。
 身体が動けと命じた。
 今の真田だったら、まさに赤子の首を捻るが如く、若宇を絶命させる事が出来るだろう。
 そして俺は、石川流なのだ。

「……………………かわゆい……………………」

 真田の首筋の経穴けいけつを手刀で突こうとした瞬間、白い手が若宇を抱きしめた。
 ……………………。
 抱きしめた?

「今の若宇から……考えられないくらい……かわゆい……♪」

 そういって真田は、若宇を抱きしめたまま頬摺りし始めた。
 若宇は少し嫌そうに顔をしかめるが、それでも成すがままになっている。

「……ねえ……石川十哉……」
「は?」
「……これ……くれない?」

 これって……若宇のことか?
 まあ別にプレゼントしても良いのだが、なんだか危険な香りが立ち込めている。
 まさか真田に、そんな趣味があるとも思えんが……。

「……そうだよ……これだよ。足りなかったものは。どーも色気が足りないと思ったら、レズしーんが今まで無かったん……」
「黙ってろ」
「だぱんっ!?」

 復活してきた師匠の顎に、俺の踵昇り蹴りがヒットした。
 前方宙返りしながら、踵をアッパーのようにカチ上げる、葉芽ようが衆から習った蹴りだ。
 再び師匠、退場。
 どうでも良いけど、今日は俺の打撃が良く当たる。
 感慨に耽りながら、真田と向き合った。

「ま、まあ。それは後から本人に交渉するとして。取り敢えず今は、風呂に入れてやってくれ」
「……………………解った」

 凄く不満そうだったが、真田は若宇の手を取って、家の中に歩き出した。
 なんか、背景がピンク色に見える気が。

「さ、真田?」

 不安になったので、思わず呼び止める。
 若宇と手を繋いだまま、真田が立ち止まった。

「い、イタズラは止めてくれよな」
「…………………………」

 答えは返ってこない。
 なんか……マズいのか?
 静流様が会議から帰ってくるまで、風呂は保留にした方が良いのかもしれない。
 そう思ったとき、背を向けたままの真田が呟いた。
 俺の質問への回答じゃない。

「……ねえ……石川十哉……」
「な、なんだ?」
「……………………若宇は……昔の若宇は……素直で……かわゆいわよね……」
「……そ、そうですか?」

 思わずイタズラシーンを想像してしまい、敬語に成る俺。

「……なのに……」
「……?」
「素直じゃない……意地っ張りの若宇……誰がそうしたんでしょうね……」

 そう言い残して真田は、若宇の手を引いて風呂場へと立ち去った。
 ……………………。
 素直じゃない若宇?
 それは多分、今の……記憶を無くす前の若宇のことなんだろうが……。
 素直じゃない?
 あれほど自分の欲望に素直な人間も、居ないと思うのだが。
 取り敢えず、なんとなく気分が悪かったので、玄関前に倒れていた……。

「アンタだろ」
「ぐはっ!?」

 師匠を蹴ってみた。










to be continued



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