「ねえ……ペケちゃん……」
「んー?」

 耳元に届く、若宇の声。
 かなり不本意なのだが、俺は今、若宇と一緒のベッドに横たわっていた。
 しかも腕枕。
 風呂から上がった真田に、一緒に寝てくれるよう頼んだのだが、若宇と真田、両者から却下された結果だ。
 若宇曰く、風呂は俺の言う事聞いて真田と入ったのだから、夜は一緒に寝ろ、と。
 俺には何一つメリットが無いのだが、一応交換条件だったらしい。
 真田に助けを求めたのだが、夜食を平らげた後では、交渉する材料が無い。
 まあ、寝るぐらいならな。
 ちなみにいつもの若宇なら、上半身裸で寝るところなのだが、今日はキチンとパジャマを着せておいた。
 勿論俺が着せた。
 下着も拒まれたが、無事着用―――いや、パンツは真田が穿かせてくれた。……ホントだぞ―――済み。
 だが、最後の最後までブラジャーを着けるのは拒否されてしまった。
 なんでこの親子は、生の乳にこだわるのだろう?
 抱きつかれた胸に、突起が当たる当たる。
 まあ、当たったからどうという事も無い。

「あしたは、なにしてあそぼっかー?」
「……明日は……」

 実は、それが一番の懸念なのだ。
 桃色突起物になど、思いを馳せている場合ではない。
 学園を休ませて、原因究明と事態復旧に奔走したかったのだが、夜半に帰宅した静流様によって却下されてしまった。
 なんでも、『いつ百地からの命があって、通えなくなるか解らないので、一日でも多く登校させたい』との事だったが……。
 絶対に楽しんでると思う。
 その証拠に、俺と師匠から事情説明を受けたあと、陰に隠れて携帯電話で、なにやら楽しげに連絡していたからだ。
 しかし今の若宇に、それが納得出来るか……。

「あのな、わかちゃん」
「ん?」
「明日は……おままごと、しよっか?」
「おままごと?」

 きょとんとした表情で、俺を見詰めてくる。
 そうか……ちくしょう。
 俺達が子供の頃、おままごとなる名を持つ遊戯は、経験してなかったのか。
 忍者だもんな。
 熱を帯びる頬を隠しながら言い直す。

「んと……ごっこあそびだよ」
「ごっこあそびっ♪」

 若宇が瞳を煌かせた。
 ままごとの定義がどんなものか解らんが、大抵は家族を模した児戯のはずだ。
 俺たちが言う『ごっこ遊び』とは……。

「みかがみのことだよねー♪」
「……ああ」

 この頃は……そうか。
 水鏡みかがみを習得済みだったか。
 忍者には、水鏡という陰忍がある。
 市井に紛れ込んで情報を集めるため、別人に成り切る陰忍のことだ。
 陰忍では在るが、陽忍に近い性質を持つ術であり、ほぼ全ての流派に伝わっているのだ。
 若宇は、これが好きだったっけな。
 自分とは、別の人物になりきる。
 あの頃は解らなかったが……若宇は、別の人間になりたかったのだろうか。
 百地じゃなく、忍者じゃない。
 だが……水鏡は、陰忍……忍法なのである。
 忍者の術を使って、忍者以外を演じる。
 決して逃れる事の出来ない、宿命の鎖。

「じゃあわかう、およめさんになるっ♪」
「……誰のだ?」
「ペケちゃんの♪」
「…………………………」
「ペケちゃんは、ちくにじゅうねんのしえいじゅうたくにすむ、ぶんぼうぐやのさらりーまん。てどり19まんのかちょうほさで、さいきんようやくおみあいけっこんできたの♪ じゅうさんねんまえに、おとーさんがしんで、だいがくちゅうたい。げんざいははおやひとりと、てくせのわるい、いもーとがどうきょ」
「……………………」

 やけにシビアな設定だ。
 そう言えば若宇は、こういう設定を考え出すのが上手かった。
 多分、師匠の影響だとは思うのだが。
 この親子は、似なくても良い所ばかり似ている。

「わかうは、ペケちゃんのおみあいあいて。べつにすきじゃないけど、しゃっきんへんさいのためにけっこんしたの。しゃっきんは、ぎゃんぶるでこさえちゃった♪」
「……」

『こさえちゃった♪』じゃねえだろ。
 そんな奴の借金返すのか、俺は。

「でも、そんなじぶんがヤで、いちからでなおそうとがんばる29さいの、ぎゃばくらではたらくおんな。あとからじじょうがばれちゃうんだけど、ペケちゃんはそんなわかうを、やさしくゆるしてくれるの♪ で、わかうもだんだんペケちゃんのこと、すきになるんだけど、むかしのおとこがたずねてくるの。もちろん、ぼうりょくだんのひと」
「……………………」

 なんか、希望に満ち溢れているようで、取り返しの付かないドツボにはまってるようなドラマだ。
 聞いてるだけで、惨憺さんたんとしてくる。
 これ以上聞いてると、そのうち隠し子とか、死んだはずの父親とかが出てきそうなので、若宇の話しを打ち切ることにした。

「……なあ、わかちゃん」
「ん? これからいいとこなのに?」

 全然良くねえ。

「明日は、学校ごっこしよう」
「がっこう?」
「ああ。学校に行って、新しい友達を作って、遊ぶんだ」
「んー。あんま、たのしそうじゃないよー。それより、こーゆーのは、どう? わかうがアパートのかんりにんで、ペケちゃんはじぶんのすんでたアパートがかじになって、おいだされてきたふりーたーのしゅうしょくろうにんせい。やさしくてきれいなわかうかんりにんだけど、じつはひみつが。ふつうのかんりにんだとおもっていたびじんのわかうは、よなよな……」
「お、俺……わかちゃんと、学校ごっこしたいな」

 というか、これ以上聞きたくない。
 若宇は、少しだけ残念な表情を浮かべたが……すぐに、にぱっと笑った。

「うん、いいよ。わかう、ペケちゃんとだったら、なにしてもたのしいもん」
「そ、そうか」
「うん♪」
「じゃあ、もう寝ような」
「うーん」

 そう頷くと若宇は、静かに目を閉じた。
 だがすぐに目を開けて、嬉しそうに話し出す。

「あしたは、がっこうごっこかー」
「ああ」
「ペケちゃんは、どんなやく?」
「どんなって……」

 俺は……。
 どんな役なんだろう?
 百地の守護流派。
 石川流の忍者で、若宇の付き人。
 史上最年少の、双爪そうそう伝承者。
 そのどれもが俺であり、俺じゃない気がする。
 俺は……どんな役なんだろう。

「わかうはねー。くらすでにんきもので、でもわがままなの。げんきいっぱいで、おちょうしもの。このまちでいちばんえらいにんじゃのこどもだけど、いばらないの」

 威張ってるじゃあねえか。
 あ、違うか。
 威張ってるのは、俺に対してだけだもんな。

「で、いっつもペケちゃんといっしょなのー♪」
「……………………」
「で、でね……」

 話し続ける若宇だったが、やがてその目蓋が静かに降りてくる。
 ……………………。
 静かな寝息が、部屋に流れた。
 ……………………。
 何故かふと、真田の言葉が蘇る。

『素直じゃない……意地っ張りの若宇……誰がそうしたんでしょうね……』

 ……………………。
 もしかしたら、若宇は……演じているのかもしれない。
 クラスで人気者で、我侭で、元気一杯なお調子者。
 この街で一番偉い忍者の娘で、でもそれを鼻に掛けない。
 今の若宇。
 孤独が嫌いで、馬鹿だけど卑怯じゃない、今の若宇。
 そんな若宇。
 ……本当は、今の。
 俺の腕枕で寝ている若宇が、本当の若宇なのではなかろうか?
 そんな考えが、ふと頭をよぎった。
 だが……何故?
 何故若宇は、若宇を演じる必要が有る?

「……俺が考えても、答えは出ないか……」

 疲れてはいる。
 疲れてはいるのだが……中々寝付けないので……。
 スヤスヤと眠る若宇の頭を、いつまでも撫でていた。













第十話 『幼女桃色地獄変(中編)』











 いつもの日課を、いつもじゃない場所で行なっている時、背後から気配がした。
 どうせ師匠だろうと思って無視していた俺は、朝から度肝を抜かれることに成る。

「おはよ、ペケちゃん♪」
「……おはよう……」
「ん? どしたの、へんなかおして?」
「……………………」

 それはそうだろう。
 頭に鉄拳落とさなければ覚醒しない若宇が、自分から起きてきたんだ。
 パジャマ姿なのは、愛嬌だとしても……。
 ここ十年以上、発生したことのないイベントだった。

「あ、ペケちゃん。れんしゅう?」

 若宇は俺の手に握られていた、猫爪と熊爪に気付いたらしい。
 ちなみに石川流では、木刀を使った修練などは存在しない。
 一般的に剣道家や剣術家は、厚塗りの木刀や鉛入りの木剣を使った修練が存在するらしいのだが、そんな概念は無いのだ。
 何故なら、剣の重さは、戦いとなんの関係もないから。
 1kgだろうが10kgだろうが、生まれてから今まで鍛え上げた瞬発力が、得物の重さを等しくする。
 いつも使わない木刀で素振りをするくらいなら、双爪を一振りでも手に馴染ませた方が良い。
 では、双爪がこの手に無かった時はどうするのか?
 そんな無駄な事を考えるくらいなら、素振りでもしておいたほうがマシだ。
 そもそも戦闘が偶発的に起きる事など、この世に無いのである。
 色々なしがらみ、敵の有無、自分の気性と能力。
 己の立場と役割。
 全てを理解していれば、どのような場面でどのような戦闘が起きるか、大体予測できるのだ。
 そして、それに対処できる装備を整えておく事。
 それが忍法。
 無ければ無いなりの戦闘も出来るが、基本的には準備しておく。
 もし準備していなければ……なんて考える必要は無い。
 それが当たり前なのだ。

「ああ」
「わかうもする♪」

 若宇が俺の手から、双爪を奪い取ろうとする。
 が。

「駄目だよ」
「えー? なんでー?」
「これは俺のだから。それにわかちゃん、使えないだろ?」

 若宇はどんな得物も使いこなすが、基本的には無手での戦闘を得意とする。
 若宇が魔法少女の持つバトン以外で、得物に執着しているのを見たことが無い。
 それに自慢じゃないが俺は、わかちゃんの年齢時―――五歳の頃には、石川流の全技を習得していた。
 もっとも、習得していただけで、使いこなせたわけではないが。
 俺が石川流を使いこなしたのは、わかちゃんの年齢から1年後。
 幼少部を卒業したと同時に、俺は双爪の伝承を果たす。
 石川流、秘忍具。
 猫爪と熊爪。
 若宇を……百地を護るための剣。

「そんなことないよ」

 若宇が無手で、拳を繰り出し始めた。
 拳……いや、あの動きは……。
 正伝しょうでんから正法しょうほう実光じっこう高台こうだい
 十輪じゅうりんから峰定ぶじょうへの発生。
 まさか……。
 今、五歳程度の若宇が見せたのは、石川流抜刀術、七の套路とうろ宇治うじ』だった。
 石川流には、七つの套路とうろがある。
『清滝』『賀茂』『高野』『大堰』『桂』『山科』『宇治』の七つだ。
 と言っても、七つの独立した套路とうろがある訳ではない。
 一の套路とうろ『清滝』から、技を幾つか加えたのが、二の套路とうろ『賀茂』。
『清滝』から『賀茂』とは違う発生を見せるのが、三の套路とうろ『高野』と、一つの套路とうろが七つの道を持っていることになる。
 一つ学んで、次の套路とうろと言うわけではない。
 徐々に積み重ねていくのが、石川流の套路とうろなのだ。
 簡単に言えば、七の套路とうろ『宇治』に辿り着いた時、石川流抜刀術の全てを学んだ事になる。
 どこかの漫画のように、套路とうろには無い別の技―――奥義だの秘伝だの絶招ぜっしょうだのは、存在しない。
 技とは、どの技も同じだ。
 使いどころが違うだけで、威力があったり高度だったりする技を、わざわざ温存させる意味は無いからだ。
 勿論、奥義だの絶招だのを持っている武術を揶揄やゆするつもりなど、毛頭も無い。
 普通の武術は、伝授する必要が有る。
 それも習おうとする者に。
 一般的に言って武術は、習者と伝者の二種類に伝播される。
 読んで字の如く、『習う者』と『伝える者』である。
 習者は、その武術の一端を学べるが、本当にその武術の全てを修めるつもりなら、内弟子に入らなければ成らない。
 だから秘伝や絶招といった系列の技が生まれるのだ。
 理由は様々だろう。
 危なくて一般人には教えられないとか、秘匿しなければ優越を保てないとか。
 その点石川流は、一般人に教える必要が無い。
 いやむしろ、教えてはいけないものなのだ。
『百地』を守護するためだけの剣。
 故に門下生など取る事は無いし、石川の人間以外に伝える事も無い。
 だから全ての技を七つの套路とうろに込めても、何の問題も無いというわけだ。
 勿論、七の套路とうろ『宇治』を繰り出せたからと言って、全ての石川流が使いこなせるわけではない。
 知っていると、使えるは、別の話しなのだ。
 だが……。

「ど?」
「……………………」

 七の套路とうろ『宇治』の全てを終えた若宇が、にぱっと微笑んだ。
 石川流の全てを。
 五歳程度の若宇が、使っている。
 俺よりも早く。
 何故?

「どしたの、ペケちゃん?」
「……いや。なんでもない」

 不安そうに見上げる若宇の頭を、軽く撫でる。
 くすぐったそうに笑う若宇は知らないだろう。
 俺の指に、殺意が込められている事を。
 若宇が何故、石川流の套路とうろを修めているか、俺は知らない。
 誰が教えたのかも。
 だが……十年以上経って、判明したこの事実。
 若宇はおそらく、石川流を使いこなせる。
 俺よりも上手に。

「ペケちゃん。もうれんしゅうおわり?」
「……ああ」
「じゃあ、ごはん♪ わかう、おなかすいた」
「……………………ああ」

 だから俺は、若宇が嫌いなのだ。




















 ちゃっちゃっちゃちゃん、ちゃちゃっちゃちゃん、ちゃっちゃっちゃちゃららららららん〜♪

 まだ朝早い通学路に、馬鹿ソングが響き渡る。
 振り向く同校生たちは、何事かと思っている……わけじゃないか。
 どちらかというと、またかと言った面持ちだ。

「はーっはっは♪ 良くぞ現れたな、悪徳忍者っ!」

 現れたのは、お前だけどな。
 御存知、喰代ほおじろ学園の定番イベント。
 大和智純、襲撃の巻である。

「……ねえペケちゃん?」
「なに?」
「あれ、だーれ?」

 俺の裾を掴んだ若宇が、小首を傾げてきた。
 若宇と純が出会ったのは、幼少部を卒業して、初等部に入学した頃。
 今の若宇は、出会っていない計算だ。
 もっとも、出会っていたとしても、今の純を昔の純と重ね合わせるのは難しいだろう。

「ただの馬鹿だよ。あまり構わないように」
「はーい♪」

 右手を上げて、元気に返事する若宇。
 うむ、良い子だ。
 今、ふと思ったのだが。
 このまま治らずにいた方が、全てに置いて良いのではなかろうか?
 幼児の若宇を、再教育。
 素直で『百地』に相応しい忍者に。
 勿論師匠の手からは遠ざける。
 あの人のそばに置いたら、若宇の二の舞だからだ。
 意味もなく、朝から父性を芽生えさせた俺。

「あー、しどいぞ、悪徳忍者っ! 若宇ちゃんが記憶を失ったって、らみっちからメールがあったから、いつも通りに襲撃してやってるのにっ!」
「くだらねえイベントを、押し売りすんな」

 ちなみに、らみからのメールと言うのは、木の葉に書かれた文字の事だ。
 俺んちにも時々来るが、意味の解らない事はなはだしい。
 なんせ普通の木の葉に、マジックで書かれているのだから。
 メールの語源的には有ってる気もするが、その場で伝えれば良いと思うのは俺だけでは無いだろう。
 何故なら、その木の葉を届けているのも、らみなのだから。

「ねえペケちゃん?」
「ん?」
「あのひと、しってるの?」
「んー」

 知ってると言うか、知らないでいたかったというか。
 純も昔は、内気でうつむきがちな、ちょっと美少女風の可愛い娘だった。
 今の純になったのは……中等部に入学する前くらいだったかな。
 勿論と言うかなんと言うか、若宇の一言が原因だった。

『自分の力が足りなきゃ、他から借りりゃいーじゃん』

 各門派に入門を拒否されて落ち込む純に、若宇はそう言った。
 そして純は、母さんに弟子入りして科学忍法なる児戯を習っているというわけだ。
 本当は……自分の足りない部分は、仲間に補ってもらえばいい。
 その代わり、仲間の足りない部分を補ってやる。
 それが仲間だろう。
 そう言う意味だったのになと、若宇は笑っていた。

「……若宇ちゃん……」

 らみが少しだけ辛そうに微笑んだ。
 らみにとっても若宇にとっても、お互い大事な友達だったはずだ。
 出会ってから今まで、思い出を共有する、大事な友達。
 そりゃ喧嘩もするし、嫌がらせもする―――いや、嫌がらせは一方的か―――事もある。
 お互い一日くらい口を聞かないなんてのは、しょっちゅうだ。
 それでも、朝になれば……。

「……あ、悪徳忍者っ! 貴様が元凶だなっ! 純の友達を、ESIC洗脳装置に掛けて、記憶を奪ったと見たっ!」

 笑顔で挨拶を交わす。
 そう。
 今の純の笑顔のように。

「ねえペケちゃん。いーえすあいしーって、なに?」
「皆目見当付かん」

 最近の漫画やアニメは、説明の無い固有名詞が先行する傾向がある。
 またマニアな人たちは、それを格好良いと思う節があるのが理解できない。
 不親切極まりないっていうか、駄目なんじゃなかろうか。
 別なメディアで辞典的なものを発表して補完してるつもりだろうが、それは本末転倒してる気がするのだ。
 本文本編中に説明してこそ、作品だろう。

「そんなことは、どーでもいいのだっ!」

 やはり説明する気は無いらしい。
 純が赤い顔をして、背中から黒い筒を取り出した。
 あれは……。

「理解したようだな、悪徳忍者っ!」

 自信満々で取り出した筒は、二本のパイプで繋がれていた。
 つまり、給弾用と射出用だ。

「これぞ、南部博士の新型っ。自動射撃暗黒破壊球、『ばすたーず』だっ!」
「……いや……」

 新型っていうか、見たこと有った。
 初登場した時は新型だったろうが、今はもう量産型。
 いや、お古か?
 もう俺へのお披露目は終わったので、純に譲ったのであろう。
 母さんはシビアだ。

「行くぞ、悪徳忍者っ! そして姫に記憶を戻すっ!」
「……姫……ねえ……」

 確かに世が世なら、若宇は姫だったのかもしれない。
 そう考えると、世が世でなくて、本当に良かった。

「悪っ! 滅っ!」

 純が射出用の筒を俺に向けてきた。
 あれから発射される黒いゴム弾は、世界を破滅させる力を持つ……という意味の名前だ。
 実際は破滅しない。
 それでも当たれば、ちょっとだけ痛いだろう。

「……しゃあねえか……」

 溜息を付きながら、腰に結わえてある猫爪の柄に手を掛け……。

「斬っ!」
「しゅっ」

 俺の斜め後方から、影が飛び出した。
 霞んだ影は、瞬く間に消え去り……。

 さくっさくっさくっ。

 黒いゴム弾を……貫いた。
 純が打ち出した、三発のゴム弾―――おそらく、背中に背負ったタンクの容量の関係で、三発しか打ち出せないのだろう。本当に母さんはシビアだ―――を貫いたのは、若宇の放った……。
 飛針とばり
 何時の間に装備していたのか、木製の飛針で、飛来するゴム弾を打ち抜いていたのだ。
 回転しながら飛来する球体の中心を、寸分の狂いもなく。
 その技術に、驚いたわけじゃない。
 飛針。
 百地の忍具には、飛針というものが存在しない。
 何故なら、貫通力だけ考えれば箸手裏剣の方が上だし、破壊力だけ取れば苦無の方が上だからだ。
 携帯しやすいので使用する流派も在るが、圧倒的に少数派である。
 飛針とは元来、暗器なのだから。
 殺傷能力の低い忍具を、わざわざ携帯する意味は無い。
 たまに飛針を使う流派も存在するが、あくまでも補助用である。
 にもかかわらず……。
 若宇が今放ったのは、百地が持たない忍具だ。
 あんなもの、何処から?

「……って、ちょっと待て若宇」
「ん?」

 若宇の右手に握られていた小刀が、今まさに純の頚動脈を切り裂こうとしていた。
 悠長に突っ込んでる場合ではないとも思うが、俺の予想通りに、若宇の動きが止まる。

「……あ……あ……」

 純の表情が、恐怖に染まっていた。
 それはそうだろう。
 今突き付けられているのは、本物の殺意なのだから。

「なに、ペケちゃん?」
「なにっていうか……なにしてんだ?」
「だって、おそってきたよ。おそってくるのは、わるいひと」

 確かに。
 俺たちは、そういう風に教育されてきた。
 純の襲撃は、ただの茶目っ気なのだが―――いや、本人は本気なのかも知れんが―――それが今の若宇に判別できよう筈も無い。

「このひと、わるいひとじゃないの?」

 くりくりっとした目で、若宇が尋ねる。
 その表情からは考えられないだろう。
 俺がもし、『悪い人だよ』と答えれば……。
 手に持った小刀が、純の命を絶つことになる。

「頭も悪いし言葉遣いも悪いし発育も悪いが、基本的には悪い奴じゃない」
「……でも、おそってきたよ?」
「襲ってきたって言うか、若宇と遊びたがってるんだ」
「そなの?」

 俺が頷くと、若宇は小刀を引っ込めた。
 その代わりに、まだ蒼い顔をしている純の鼻先へと、晴れやかな笑顔を突きつける。

「あたし、わかう。いっしょにあそぶ?」
「……………………」

 ああ、そうだ。
 あの時も、同じ台詞だった。
 純と若宇が初めて会った時。
 近所の下っ端忍者の餓鬼どもにからかわれた純と、餓鬼どもを蹴散らした若宇。
 アグレッシヴ過ぎるこの街の子供の中で、純は浮いた存在だった。
 小さい頃から漫画とアニメが好きで、その登場人物に憧れていた純。
 仲間に入りたかったが、言い出せなかった純。
 小さな眼鏡をうつむかせ、二つに縛った髪がうな垂れていた純。
 俺が声を掛けても、摩理が声を掛けても、身体を震わせて答えること無かった純。
 その純が、初めて笑顔を見せたのは……。

「わたし……純。大和智純」
「じゃ、あそぼ、じゅんちゃん♪」
「うん♪」

 こんなシーンだった。

「じゃ、とりあえず、いこう」
「……何処どこに?」

 問いには答えず、若宇が純の手を握った。
 あれ?
 確か、この後は……。

「うみでおよぐの♪」
何故なぜに!?」

 抵抗する暇も与えず、若宇が純の手を引いた。
 薄い体が、宙に浮かぶ。
 ああ、そうだった。
 たしか、出会ったのもこの時期だった。
 盛夏でも、北の大地の海は冷たい。
 ましてやこの時期では尚更だろう。

「うみ、たのしいもん♪」
「答えになってねえっ!」

 この後、幼い純は海に放り込まれ、39℃近い熱を出して、生死の境を三日ほど彷徨う事になる。

「ちょ、ちょっと悪徳忍者っ! 回想シーンに浸ってないで、助けろー!」
「まあ、水は冷たいだろうが、刺激になって止まった発育も動き出すかもな」
「ふ、ふざけんなー!」

 ドップラー効果を残して消え行く姿を、俺は厳かな気持ちで見送った。
 まあ大丈夫だろ。
 もし熱が出たとしても……。
 あの時のように、若宇が泣きながら看病してくれるだろうから。
 まあ、実際看病したのは俺なんだけど。













「ふう……」

 ようやく級友達への事情説明を終え、俺は廊下に出て一息ついた。
 最初はどんなコントなんだと、訝しい表情を浮かべていたクラスメイトたちも、若宇の幼児語にノックアウト寸前だ。
 なにせ、体の発育だけは良い女だ。
 見かけは女、中身は幼女。
 その手のマニアにはたまらないだろう。

「……」

 流石に若宇のクラスメイトらしく―――まあ、俺のクラスメイトでも有るのだが―――、いとも簡単に状況を受け入れていた。
 俺は飲み込むまで、一昼夜かかったと言うのに。
 実際、今朝の若宇の動き……石川流の套路とうろを見るまで、どこかで懐疑的だったのは否めない。
 あの馬鹿のことだ。
 俺への嫌がらせのためなら、己を幼女と化すくらいやってのけるだろう。
 それが、何故信じるようになったのか。
 勿論、石川流の套路とうろを見たからである。
 俺を騙しているんだとすれば―――石川流習得を隠しているんだとすれば―――、暴露するならもっと効果的なタイミングがあるからだ。
 今この段階で、俺に見せるわけが無い。
 百地最強の流派と謳われた石川流の、秘伝の套路とうろ
 一体誰が若宇に……。

「……考えられるのは……」

 一つ、親父。
 現在石川流の套路とうろを知りえるのは、俺と親父―――先代の百地の牙、石川康哉しかいない。
 俺が若宇に教えた記憶が無い今、親父を疑うのは当然だと言えよう。
 しかし……あの親父が、そんな事をするだろうか?
 本来若宇に……『百地』の跡継ぎである若宇に、戦闘能力は必要ない。
 百地は忍者を統べる者。
 先頭切って戦う事は無い。
 いや、戦ってはならないのだ。
 戦うと言う事は、負ける……死ぬ可能性もあるということだ。
 そりゃ勿論、いざと言う時に自分の身を護れぬようでは困るし、あまりにも情け無い上役では、下っ端から不満も出るだろう。
 故に百地は、現存する秘忍書の大部分を所持しているのだ。
 強くなるためではない。
 己の身を護るために。
 だが、過剰な戦闘力は、過剰な自信を生む。
 己の力を過信するあまり、無謀な敵に挑んで命を落とした忍者は、数知れないのだ。
 だから言ってみれば、百地はさほど強くなくて良い。
 戦闘は、下忍たちが繰り広げれば良いのだから。
 百地に求められる戦闘能力とは、五分間だけ生き延びられる力。
 石川が救出するまで命を繋ぐ事の出来る力。
 これに尽きるのだ。
 親父は、そう教えてくれた。
 その親父が、わざわざ若宇を危険に晒すような真似を……石川流を伝授するだろうか?
 答えは否、だ。

「……」

 一つ、俺。
 確かに俺は今まで、若宇の前で石川流抜刀術を振るってきた。
 例えそれが、実戦と呼ぶには程遠いものであったとしても、だ。
 その俺の動きを見て、若宇が石川流抜刀術を会得……というか、導き出した。
 ……。
 それも無いだろう。
 技の一つや二つを真似る事は出来ても、套路とうろにまで辿り着く事が出来るとは、到底思えない。
 若宇は天才だ。
 一度見た技を己のもののように使いこなす事も出来るし、その技を起点として発生させることも出来る。
 だが、そこから套路とうろまで遡る事など、どのような天才でも出来るはずが無い。
 30巻もある小説のラスト一ページだけを読んで、一巻の第一行目を言い当てるようなものである。
 そんな事が出来る人間がいるとすれば、人間じゃない。
 真田の持つ能力など、かわゆいものだ。
 まあ、真田は可愛いが。

「……」

 思考が反れたが……一つ、師匠。
 あの人なら、何をしても納得できそうな気がする。
 俺の中で生まれた格言の中で、『理屈に合わない事は師匠の仕業』というのがある。
 どんなに強引な推論だとしても、『ああ、師匠だしな』で済んでしまうのだ。
 いや、済ましてはいけないのだろうが、三つの過程の中では、一番有りそうである。
 なんせ師匠だしな。

「……どうしたの……?」

 突然掛けられた声に、一瞬身体が緊張する。
 が、そんな情け無い姿は、微塵も見せない。
 相手が真田だからだ。
 それにしても真田は、気配を消すのが上手い。
 この俺ですら欺かれるのだから。
 流石真田流というべきか。

「別に」
「……ふふっ……」
「なんだよ?」
「……石川十哉は……廊下で考え事するのが……好きなの?」
「別にそういうわけじゃないんだが」

 可笑しそうに小首をかしげる真田に、内心乱れながら答えた。
 一人が好きなわけじゃないんだが、癖になってるのかもしれないな。
 なんせ教室の中に居れば、若宇の馬鹿に苛々するので、視界に入る時間を少しでも短くしたいのだ。

「……それにしても……」
「ん?」
「やっぱり……心配なのね……若宇のこと……」
「?」
「……なんか……深刻そうな顔……してたから……」
「……」

 すまん真田。
 今、その事考えてなかった。
 本来なら真田ではなく、若宇か百地に謝らなければならないのだろうが、なんとなく真田に謝っておいた。
 言うまでもなく、好感度の違いだ。

「しかし……どういう現象なんでしょうね……?」

 それは若宇の幼女化のことだろう。
 確かに不可解な現象だ。
 記憶喪失なんかとは、ちょっと違う感じがする。
 まあ最も、記憶喪失にかかった人間なんか見たこと無いんだけどよ。

「私……陽忍にも陰忍にも詳しくないんだけど……それでも……こんな現象聞いた事無いわ……」
「俺もだ」

 ある流派には、人を傀儡かいらいする陰忍があるという。
 薬物と暗示により、まるで人形のように操る陰忍だ。
 しかし操られた人間は、一目瞭然だと言う。
 虚ろな目と気の抜けた言動。
 とても正常な人間には見えないため、既に廃れた陰忍だと聞いている。

「……陰忍?」
「……え……?」

 何故俺は。
 そして真田は、陰忍だと思ったのであろう?

「あれって陰忍……忍術なのか?」
「……え……ち、違うの……?」
「……」

 俺の中で、何かが閃いた。
 確かに自然事象や病気などでは有り得まい。
 そんな現象、聞いた事が無い。
 この世の中で起こる、不可思議な現象。
 別にそれらが全て、忍術って訳じゃないんだろうが……。

「……そうか……もしかしたら……」
「……い、石川十哉……?」
「そうだ……そうかもしれん」
「どういうこと……?」
「まだ全然過程なんだが、もしかしたら若宇は、陰忍を仕掛けられているのかも」

 若宇には敵が居る。
 それも、組織立った敵が。
 そして消えた矢代派と、木戸飛鳥。
 もしこの愉快な現象が、陰忍だとすれば……。
 だが。

「で、でも……」
「……………………」

 そう。
 若宇が正体不明の果実を口にした時、傍らに居たのはらみだ。
 らみが間者だとは、とても思えない。
 まあ、思えるようじゃ間者じゃないんだろうけど、それでもそうは思えないのだ。
 ましてや若宇の今までの記憶を消したとしても、若宇が手元に無いのなら、それは何の意味も成さない。
 刷り込むなら、若宇を掌握してからだ。
 となれば……。

「事故、か」
「……事故……?」
「若宇は腹が減って、奇妙な果実を齧った。そして記憶を遡らせてしまった。だがそれは、術者にとっても予想外の事だった。何故なら、そんな怪しげな果実を口にするような馬鹿が、この世に居るわけが無い。まして忍者ならな」
「……」

 真田が腕を組んで、うんうんと頷いた。
 腕の上で、Dカップが揺れる揺れる。

「きっと極秘に生成していたんだろう。それが旭日の元に晒されてしまった。馬鹿に偶然発見されたために。馬鹿の食欲のために」
「……納得できない……理由よね……」

 俺は頷いた。
 術者が、何故そんなものを生成していたかは解らない。
 若宇に使うつもりであったのかも。
 だが極秘に育まれていたそれは、日の目を見てしまったのだ。
 焦っただろうな。
 きっと警備も厳重だっただろう。
 しかし、侵入したのは……若宇とらみである。
 稀代の天才忍者と、忍者すら凌ぐ穏形術を持つリスの化身。
 いや、化身じゃないんだけど。
 あの二人に、潜入出来ない場所があるだろうか?
 まあ、推論の域を出ていないのかも知れんが、俺は忍者である。
 不可解な事象は、忍術と結びつけるのが当たり前だ。

「どっちにしろ、迂闊だった」
「……?」
「あまりにも愉快な現象に囚われて、見失ってたぜ」
「……見失う……?」
「原因だよ」

 この出来事の始まりは何だ?
 ……いや、俺の未熟が発端だということは理解している。
 でもそうじゃなくて。
 この馬鹿げた事件の始まりは、若宇が奇妙な果実を齧った事から始まってるんじゃないのか?
 だとすれば……。

「調べるべきは、始まりの果実」

 俺の言葉に、真田がポンと手を打った。
 どうやら納得してもらったみたいだ。
 盲点と言うか、最初に考えるべきだった。
 やはり混乱していたんだろう。
 現象もそうだが、幼女の若宇に。

「俺、行って来るわ。馬鹿が遡った場所に。なんか手がかりが在るかも知れん」
「……うん……」
「まだ授業は残ってるが、それどころじゃねえもんな」
「……」

 真田が教室に視線を移した。

「……そうね……いろんな意味で……それどころじゃないわね……」
「?」

 それが何を意味しているか、俺には解らなかった。
 時々真田は、不可解な事を言う。
 疑問を頭の片隅に追いやりながら、双爪をこの手にすべく、教室の扉を流した。
 ……………………。
 教室の一部が、桃色に染まって居た。

「ほら、触ってごらん」
「……とーるちゃん。さわるとどーなるの?」
「気持ち良くなるんだよー。僕が。ほら、ちょっと上目遣いで、切なげに喘ぎながら、懇願こんがんするように」
「んー。なんかとーるちゃん。こわいよー」
「怖くないよ。新しい世界の扉が今、開くんだから」
「開けんなよ」

 教室の片隅で、桃色遊戯に興じようとしていた透の頭を、二枚抜いた打板だばんの底部で突く。
 底部なので刺さるわけじゃないが、打板は金属製だ。
 突いた瞬間、透の身体が崩れ落ちた。
 数瞬の間硬直したかと思うと、いきなり全身を抱きしめ、床を転がりながら悶絶し始めた。

「……ぐあぁぁぁぁっ!?」
「やっぱりこんな事考えやがったか。夕べ呼ばなくて正解だったぜ」

 俺の台詞も、今の透には聞こえて無いだろう。
 今突いた経穴けいけつは、通天つうてん
 頭頂部の中心にある百会ひゃくえという経穴のちょっと下の両脇にあり、身体の中に流れる、全ての経脈けいみゃくの集うポイントである。
 この通天をある一定の強さで、両方同時に強く突くと、一旦身体の経脈が途切れてしまう。
 勿論途切れたままなわけじゃない。
 数瞬の後、再び流れ出すのだが……。

「ぎゃぁっ!? こ、腰がっ!? 足の裏がっ!?」
「ふうむ。胃腸の調子が悪いようだ。最近不摂生らしいな。忍者なんだから、食いすぎには注意しろ。それに、あまり睾丸を酷使すんなよ」
「はうっっっ!?」

 のた打ち回る透を見下ろしながら、冷静に診断する。
 一旦途切れた経脈に気が流れる時、患部に激痛が走るらしいのだ。
 噛み砕いて言えば、身体の悪い部分が傷むと言う事になる。
 つまり健康な人には効き目の無い経穴なのだ。
 この技のポイントは、強く突けば良いというものではないという点。
 頭頂部だけに、強く突きすぎれば、経穴云々じゃなくても死んじゃうからな。

「と、それどころじゃなかった。わかちゃん」
「ん?」

 今まさに穢されようとしていた、穢れ無き瞳が、俺を直視する。
 自分がどんな危険に接していたのか、今の若宇には解るまい。
 まったく、真田の言うとおりだったぜ。
 確かに、それどころじゃなかったな。

「俺、ちょっと出かけてくるから。みんなの……透以外の言う事、良く聞いて大人しくしてるんだぞ」
「ええ〜」

 若宇があからさまに嫌そうな表情を浮かべた。
 ああ、そうだった。
 この頃の若宇は、いつも俺と一緒に居なければ気が済まない子供だった。
 俺が修行する時も、親父から説教される時も、師匠から教えを請う時も。
 ……俺が一人で居たい時も。
 無理に引き離そうとすれば、涙を浮かべて抗議する。
 そんな子だった。
 だから俺は、若宇の瞳が潤む前に、頭をそっと撫でてやる。

「大丈夫。すぐ戻ってくるから。それまで皆と遊んでてな」

 既にらみから、裏山のポイントを聞き出してあるので、一人で行っても問題はあるまい。
 若宇を連れて行っても、離れたとしても、同様に危険が付きまとう。
 ならばより手駒が多いほうを選ぶべきだろう。
 この学園に残しておけば、真田も居るし師匠も居る。
 あまり信用成らないが、透も藍田先生も居るのだ。
 俺が連れて歩くより、安全度は高いだろう。
 万が一の事が有っても、俺一人で済む。

「……うん……」

 しぶしぶだが、若宇は頷いた。
 基本的には、言えば解る子なのである。
 それが、どう捻じ曲がって、今の若宇に成長してしまったんだか。
 もう二三発、師匠を蹴っておくべきだった。

「じゃ行って来る」

 そういい残して、俺は教室から飛び出した。
 疾風の如く廊下を駆け、階段を摩り抜ける。
 本来、学園の廊下は、疾走禁止なのだが、一刻も早く辿り着きたかったのだ。
 なんとなく、嫌な予感がする。
 忍者にとって、勘とは重要な能力の一つである。
 膨大な訓練と知識。
 それらも確かに重要だが、それを超えた第六感とも言うべき感覚が、命を紡ぐ事があるのだ。
 例えば、殺気。
 良く殺気を感じるなどと言うが、一般的に言えば、フィクションなのだろう。
 人が殺意を持つとき、確かにある種の感覚を発する時がある。
 しかしそれは、目の当たりにした時だ。
 簡単に言えば、落ち込んでいたり、空腹だったり、喜んでいたりといった、感情となんら変わりは無いのだ。
 だれでも目の前に三日間も食事を口にしていない空腹な男が居れば、一目で解るだろう。
 殺気とは本来、そういうものなのだ。
 だが忍者は、離れた場所からでも殺気を感じ取る時がある。
 一言で言えば、違和感と表現すれば良いかも知れない。
 いつもと木の葉の配置が違う。
 いつもと風の流れが違う。
 いつもと虫や鳥の鳴き声が違う。
 膨大な経験則から、日常との違和感を感じ取るのだ。
 そして自分の置かれた立場を併せて考える。
 そこから導き出されるのが、殺気という感覚だ。
 一般人では感じ取れないだろう。
 だが、それすら超えた予感。
 いつもと同じ風景。
 いつもと同じ鳴き声。
 いつもと同じ風の中に身を置いて尚、感じる違和感。
 生死の狭間と言っても良いかも知れない感覚を、忍者は感じ取る事が出来るのだ。
 俺が今感じている感覚は、日常の経験則から導き出されたものじゃない。
 だが……感じるのだ。
 俺の勘が告げている。
 急げ、と。

「……」

 玄関で、愛用のスニーカーに履き替え、校庭を突っ切るように駆け抜ける。
 次の時間、体育を受けるらしい後輩たちが、一斉に視線を集めてきた。
 いつもの羨望の眼差しの中に、多少違和感を感じた。
 なんか、汚物を見下すような視線。
 恐らく摩理から依頼書を受け取った時、屋上に居た下級生だろう。
 俺の作りこんできた、ニヒルなイメージが……。
 と思ったら、それとは別な場所から、視線を感じて振り向いた。
 これも、勘と言う奴だろう。
 おそらく、『多分見るんじゃないか』という予想と、『見てくれないかな』という願望から、俺が勝手に導き出したものなのだろうが……。
 勘が告げた視線の先には、確かに俺を見詰める瞳があった。

「…………………………」

 ああ、そうだな。
 心配するなよ。
 きっと帰ってくる。
 俺の持つ双爪は、お前を護るためのものなんだから。







to be continued



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