【……待てよ……と言って待つ奴は居ないって言うが、言った方にも問題があるとは思わないか? 本当に待たれたら待たれたで、どう決着付けるつもりなんだろうなあ?】
「……」

 俺の麦食むぎはみにも答えず、いつきは雑踏の中を泳いでいく。
 俺から必死に離れようとしているんだろうが、走るわけにはいかないんだろう。
 そんなことしたら、目立っちゃうからな。
 それでなくとも、樹は美少年なんだ。
 どのくらい美少年かと言うと、純以上透以下って所か。
 純は女だけど。
 俺もなんとなく距離を詰めないで、後を着いていく。

【なあ樹。停まって捕まるか、戦うかしろよ。このまま歩いてても、無駄なカロリーを消費するだけだぞ。そしたらまたあの黒いラーメン、食わなくちゃいけないじゃねえか。ガチ破滅ラーメン】
「……」

 一応樹のツボを責めてみたつもりだが、駄目だった。
 樹は俺の視線を向ける事無く、ただ淡々と歩いていく。
 樹はその小さな体―――おそらく160cm程度だろう―――で、さらに小さな身体の少女を、かばうように歩いてゆく。
 二人とも学生服姿だ。
 俺も通った中等部の、白い学生服。 
 多分、何の準備もすることが出来なかったんだろう。
 まさに着の身着のままってやつか。
 正直……。
 距離を詰めるのは簡単だ。
 攻撃を仕掛ければよい。
 樹の戦闘距離は解ってるつもりだし、隣の少女の事は知らんが、その流派は良く知っている。
 街中での戦闘、誰にも気付かれない戦闘は、忍者の十八番オハコだ。
 距離を詰めるのは簡単だろう。
 捕縛する事も。
 だが……。
 本当にそうしても良いか、迷っているのだ。
『依頼』で迷うのは、初めての経験である。
 忍者とは、依頼をこなす種族。
 上からだったり、権力からだったり。
 そうやって俺たちは、戦国の世から生き長らえているのだ。
 それが正しい事なのか間違っているのか、解かりもせずに。

【……なあ樹……】
「……」

 お前たちは、その答えを持っているのか?
 俺はその答えを、知りたいのだろうか?
 さっきから俺の手を止めているのは、そんな疑問なのだ。

「……お?」

 やがて喰代ほおじろ駅前商店街のアーケードも終わり、空が見え始めた。
 樹の得意な空間が開ける。
 俺よりも三つ若い忍者が、足を速めた。
 隣の少女もそれに倣う。
 樹は、名も知らぬ少女の肩を抱いて、ビルの角を曲がった。
 この程度で振り切るつもり……。

「あれ?」

 見失ってしまった。
 俺の中で、甘えが生じていたのだろう。
 甘え……本当にそうなのか?
 見逃したいと思っているんじゃないのか?
 必死に逃げる二人の姿に、なにか投影してないか?

「……」

 答えを見つけられないまま、それでも樹の気配を探り出す。
 ビルを登って、町外れに出たか……。
 樹の気配を追って、町外れまで走り出す。

「……本当に……逃げられると思ってんのかよ……樹……」

 俺から。
 己の宿命……忍者という事から……。















第十一話 『灯る影』












 いつも通り、若宇の馬鹿の世話を終え、無事放課後を迎えることが出来た。
 校門を出るこの瞬間が、一時の開放を祝福してくれる。
 アレと再び顔を合わせるまでは、俺は自由である。
 このまま若宇を放置して買い物に行っても良いし、先に喫茶店に帰って洗濯を開始しても良い。
 昨日は師匠にこっぴどくやられたので、俺の洗い物がたまっているのだ。
 たく……ふざけやがって。
 若宇の芝居を糾弾した俺を待っていたのは、理不尽なシゴキだった。
 逆ギレじゃねえか。
 まあその特訓と称されたシゴキの中で、新しい師匠の技を食らうことが出来たのは、収穫だったと言ってよいだろう。
 俺は若宇と違って、一度見ただけの技を再現するなんて、器用な真似は出来ない。
 だが……食らった技を忘れられるほど、ボンクラでもないのだ。
 使いこなすには、まだ相当かかるだろうが……これでもう少しだけ、俺の抜刀術にも広がりが出来る。

「……例えば……あれと来迎らいごうを組み合わせて……」

 石川流抜刀術には、蹴り技が少ない。
 俺の使う技の中にも、多少の連携として組み込まれているだけなのだ。
 石川流抜刀術の開祖と言われる石川五右衛門は、無類の不器用者だったと聞くが、関連は定かではない。
 石川五右衛門の使っていた技が、そのまま石川流抜刀術だとも思わないしな。
 術とは、生き残った者が改良を加えていくものだ。
 そういう意味で、歴史の古い武術は、それなりに威力があることになる。
 まあ、たまに例外もあるけどな。
 それが師匠の使う技……不思議な体術である。
 今までの歴史には無い動きと、独特の概念。
 ……あの人、自分で考えたのかなあ?
 まあベースとなる陰忍流派はあるだろうが、それが伊賀崎いがざき流と結びつかない。
 伊賀崎流のことは、俺も良く知っている。
 これと言って特徴の無い、流れ透破すっぱの流派だ。
 師匠は『流れ』って言うとキレるから、言わないけど。
 だいたい師匠の技には、呼称というものがない。
 普通、アレだけ完成度の高い技なら、技の名称くらい付けるもんだ。

「……」

 やっぱ却下。
 師匠のネーミングセンスは、壊滅的だからである。
『爆裂』とか『滅殺』とか『裏』とか『スーパー』とか、そういう単語が好きなのだ。
 子供の頃に見たアニメに影響されていると、静流様は笑っていた。
 ちなみに若宇の名を付けたのは、静流様だと言われている。
 言ったのはレイナさんだ。

『大河サンに、あんナ綺麗な音の名前、つけラレないデスー』

 そう聞いた時、思わず納得してしまった。
 なんでも若宇の名前は、大和川に祭られている神様からもらったものだと言う。
 忍者用語では『萬川集海ばんせんしゅうかい』というんだが、大和川は、『全ての川が流れ込む』という。
 全ての川が集まり、海に流れ込むように、若宇は全ての陰忍を体得できる者なのかも知れない。
 それは石川流の套路とうろを会得している事でも解る。
 だが……人間的な完成度とは、また別だ。

「また若宇ちゃんの悪口、考えてるでしょ〜?」

 唐突に聞こえてきた、間延びした声に身構えると……。
 後から抱きしめられる。
 下らないシチュエーション―――例えば、甘ったるい少女漫画とか、馬鹿っぽい成人アニメとか―――の再現かと思われたが、そうじゃなかった。
 俺の身体を抱きしめるかと思われたその手は、背中を通り越して腰に……いや、俺の腕を狙ってきたのだ。

「!?」

 声の主が摩理まりなのは解っている。
 葛篭つづら摩理。
 色吊いろつりでは一流の実力を持つこの女には、もう一つの顔があった。
 忍者流関節技―――極枝きょくしの魔女。
 打撃も得物も投げ物も得意じゃないこの女は、どこまでいっても接近戦専用の忍者なのだ。
 いろんな意味で。

「え〜い」

 間抜けた声と共に、右腕が身体の内側に巻き込まれる。
 肘も極められているか。
 自分の身体が邪魔になって……というよりテコの支点になって、逃げられない。
 一気に靭帯が、ありえない速度で伸びていく。

「くっ」

 油断していた。
 摩理だと解った瞬間、セクハラを受けるもんだと思い込んだ。
 これは俺の甘さだ。
 馴れ合っていても、幼馴染でも、俺たちは忍者。
 府抜けた瞬間があれば、容赦なく攻撃する。
 常に緊張を身に纏うために。
 討ち掛けという修行の一つである。
 達人がよく言う―――本当の達人は、そんな事言わない気もするが―――隙あらば打って来なさいという奴だ。

「ふっ!」

 このままでは肘はおろか、肩まで破壊されてしまうので、左手でクラッチを切る。
 その瞬間、俺の右手が左手の下に滑り込んだ。
 力を流されたか。
 己を抱きしめるような格好になった俺の左手を、摩理がホールドした。
 自分の左手に押さえつけられて、右手が動かせない。
 その左手も摩理に押さえられているので、両手が使えないわけだ。
 ピンチ到来。

「や〜ぁ」

 身体を抱きしめた状態の俺の左手首を、摩理が捻り始めた。
 手首を破壊するつもりらしい。
 俺の石川流抜刀術は、手首の動かし方が肝である。
 戦力半減だし、家事にも支障が出てしまう。
 家事は別にいいか。
 いや良くないか。

「ちっ!」

 俺は左手の方向に身体を回した。
 左手で右手を押さえつける格好になっているなら、その戒めを解いてやれば良いだけだ。
 まあそれは摩理も予想しているだろう。
 振り返って、摩理と向き合ってからが勝負。
 摩理の方が、一手も二手も有利なのは間違いないのだが。

「!」

 摩理の顔が見えた。
 俺の方が後手に回っているのは否めない。
 さあ、摩理はどう出る……?

「あん♪」

 掌に柔らかい感触。
 これは……ちち
 振り返って向き合った俺の手は、しっかりと摩理の胸に添えられていた。
 自分の胸を支点に、肘を砕くつもりか?

「……んふっ……私の弱いトコ……知ってるの……ペケちゃんだけだよ……」

 そんなことはなかった。
 そんなことはなかった。
 ちなみに二回否定したのは、『肘を砕くつもりじゃなかった』ってのと、『お前の弱いところなんか知らねえよ』という意味だ。
 ああ俺、混乱してる。
 混乱したまま、なんとか冷静さを取り戻す。

「いろんな人に揉まれて来たけど……やっぱりペケちゃんが一番上手だよ〜」
「うるせえ」

 冷静に。
 とても冷静に、摩理の胸から手を引き剥がす。
 あと数センチで、制服の中に引き込まれるところだった。
 危なかったぜ。
 何故ならここは、校門のまん前……。

「!?」

 好奇心で一杯の観客の中に……真田!?
 ま、不味い!
 慌てて言い訳しようとしたが……。

「……………………」

 真田は一瞬動きを止めた後……冷ややかな眼差しを投げつけ、そのまま姿を消したのであった。

「あ……あぁ……」
「ふ〜う♪ ペケちゃんの実力を測るミッション、成功〜♪」
「……」

 振り返って、摩理を睨み付ける。

「……どう見ても俺への嫌がらせにしか思えなかったんだが……」
「だってペケちゃん、最近白雪ちゃんと仲良いみたいだし〜。ここらへんで適度な距離、取っておかないと〜♪」
「……マジで殺してやりてえ」
「えへ〜♪」

 凶悪な色吊の大天使アークエンジェルは、今日も元気だった。













「で、なんだよ、摩理」
「なにが〜?」
「お前が嫌がらせ以外で、俺を待ってることなんかないだろ」
「……嫌がらせはしたんだから、いいんじゃないの〜?」
「……」

 あ、そうか。
 ……って、納得してどうするんだ、俺。
 嫌がらせ自体を止めさせなければ、俺のイメージが悪くなる一方だ。
 それも桃色ベクトルに。

「まあ、用事はあるんだけど〜」
「……」

 摩理は千代女ちよめ衆の一員であると同時に、百地から俺への情報連絡員でもある。
 俺専用だ。
 百地の中で専用の情報員を持っているのは、俺と他数人しかいない。
 静流様も持っていないくらいだからな。
 それだけ俺の地位は高い……というか、若宇が重要だと言う事だ。
 まあその分、嫉妬の風当たりもきついのだが。

「なんだよ?」
「若宇ちゃん絡みじゃないよ〜」
「……」

 さらっと心を読まれてしまった。
 さすが、人心掌握術にかけては、右に出る集団はないとまでいわれた、千代女衆の次期衆長候補。
『心を読むなよ』的なツッコミをすると、『ペケちゃん解り易いんだもん〜』と返って来るのは解っているので、あえて無言を押し通した。

「負け犬が黙ってる〜♪」
「……」

 まさかそこに突っ込まれるとは思ってなかったので、本当に言葉を失ってしまった。
 敗北感を誤魔化すため口を開こうとした瞬間……。

「実はね〜。『依頼』があるの〜」

 それも止められてしまった。
 本当に厄介な女だ。
 フェロモンで武装しているだけでなく、細かいテクも駆使してきやがる。
 厄介な女ばっかり俺の周りに集まるのは、誰かの陰謀なのか、それともそんな星の下に生まれてしまったのか。
 己の今後を考えると、泣きたくなってくる。

「依頼? 誰からの?」
「それは言えないの〜。直接会って確かめて〜」

 そりゃ直接会ったら解るだろうが。
 ……………………。

「直接?」
「そう〜」

 珍しい事もあるもんだ。
 忍者の依頼とは主に、『百地』を通して行なわれる。
 百地が依頼主と接見して、内容と報酬を受けるのだ。
 俺たち百地ではない人間が、直接依頼人と会うことは、基本的に禁じられている。
 そういうのを『裏仕事』と言うのだから。
 まあ裏仕事自体、無いわけではない。
 俺も何回か受けた事がある。
 主に師匠と静流様だ。
 あれは依頼って言うよりは、お願い……もしくは強制ではあるが。

「受けても受けなくてもいいけど〜。受けたほうが良いんじゃないかな〜」
「なんでだよ?」
「……後が怖いから〜」
「?」

 受けたら、後が怖いんじゃないのか?
 裏仕事は基本的に、ペナルティの対象となる。
 百地を通さないわけだからな。
 俺みたいに報酬は『冷たいアイスいっこ』とか『甘いプリンいっこ』とかだったら、見逃してもくれるだろうが、普通はそうはいかないのが常だ。
 それを見逃していたら、百地の存在自体が危ぶまれてしまうわけだから。
 ペナルティの種類も、状況次第だ。
 次の仕事から外す、比較的軽いものから、直接的指導をすることもある。
 百地の直接的指導……絶対に受けたくはない。
 だから裏仕事を受けるとなると、それ相当の覚悟が必要になってくる。
 それを……受けないと、後が怖い?

「どういう意味だ?」
「ん〜」

 摩理は身を捩じらせながら、口を尖らせた。
 この女がこんな表情をするということは、本当に喋りたくないのだろう。
 三人。
 三人、思い当たった。
 一人は、摩理の……というか、忍者が最も苦手とする相手。
 百地の総帥であり、忍者の総元締めであり、静流様の父親で若宇の祖父でもある、百地源牙げんが様。
 そりゃ会いたく無い。
 だが……少し考えれば解るが、源牙様が裏仕事を発注するわけがないのだ。
『依頼』じゃなくて『指令』すれば良いだけの話だから。
 もう一人は、千代女衆の長である、望月薫子かおるこ様。
 薫子様は摩理に期待しているのか、しつけが厳しいので有名である。
 ほんの些細な粗相を正すため、人前でアナルに指を突っ込んで内壁をかきむしる事などしょっちゅうである。
 俺も何度目の前で、摩理が昇天イカさせられた事か。
 ありゃあ、されるほうも辛いだろうが、見てるほうもそれなりに辛いのだ。
 まあ確かに、俺を薫子様の前には連れて行きたくは無いだろう。
 そして最後の一人は……。

「いけば解ると思うよ〜。全ての疑問が氷解すると思うの〜」
「何処にだよ?」
「……黒の城〜」
「……………………」
「……………………」

 確かに怖い。
 ていうか、隠す意味無いじゃないか。




















「お久しぶりです、黒姫様」
「本当に……今わのきわ……以来ね……」
「そんな所は彷徨さまよっておりません」

 数十分後、俺はある屋敷の奥座敷に居た。
 目の前には、黒い着物―――喪服か?―――を着た黒姫様が正座していた。
 黒髪の美しいこの女性は、もう妙齢だと言うのに、まるで20代半ばの容姿だ。
 なんか吸ってんじゃないのか?
 言わずと知れた、百地派全員の恐怖の象徴。
 ある意味、裏から支配しているといっても過言ではない……。
 伊賀崎蓮霞れんげ様である。
 蓮霞様は百地の忍者にして、伊賀崎流でありながら、百地の中に新しい流派を開いてしまった御方である。
 その名も奇黒きこく流。
 夜な夜な、西洋の城風に作られた洋館の中―――しかもこの地は、以前喫茶店があった場所である。どんな喫茶店かは、言うまでも無いだろう。買収と土地転がしで、自分の義父まで陥れるとは……本物の魔女である―――で、怪しげな儀式を執り行う、忍者には有るまじき流派だ。
 何でも錬金術と黒魔術をベースとし、忍術と融合していると言われているが―――そんなものをベースとしている時点で、忍術とかけ離れている気もするが―――その実態は解っていない。
 噂なら、俺の耳にも届いている。
 近隣の村で―――村なんか無いけど―――若い男女が頻繁に行方不明になるとか。
 存在しない高い塔の上から、絹を裂くような悲鳴が聞こえるとか。
 絨毯のような物で飛んでいる影を見たとか。
 黒姫様に青いひげが生えたとか。
 歴史上、十字軍の女神と呼ばれた人の生まれ変わりだとか。
 近くの海で、恐竜に似た泳影を見たとか。
 とにかく黒い噂が絶えないのである。
 何の信憑性も無いにも関わらず、地域の住民から畏怖の目で見られているらしい。
 近くの初等部の学生なんかは、黒の城を見ただけで鱗が生えてきただの、手足の無い老婆が時速100kmで追いかけてきただの言われて、回覧板も回してもらえない状態だ。

「……よく……来たわね……先ずは一服……盛るわ……」
「盛んなよ」

 俺の突っ込みも意に介さず、黒姫様は優雅にお茶を立て始めた。
 小さな陶器の茶碗に、茶杓ですくった粉末状の抹茶を入れ、柄杓でお湯を注いだ後、茶筅でお茶を点て始める。
 こういった物には詳しく無いから、何流の作法かは解らないのだが、手馴れた優雅な動作だ。
 ちなみに俺はこの人を、幼少の頃から良く知っている。
 なんたって、師匠の義姉だからな。
 小さい頃は、妹の猫姫様と共に、良く遊んでもらった。
 後にその遊びは、黒魔術の儀式だと解って驚愕した覚えがある。
 道理でいっつも猫姫様が、板石の上に縛られてるわけだぜ。

「……」

 茶室にシャカシャカという、小気味良い音が通る。
 こんなにも美しい人が、奇黒流を開いたとは、とても信じられない。
 奇黒流の特徴として、毒物の扱いに長けている点が上げられる。
 長い歴史の中で発見できなかった毒物を、次々と精製したのだ。
 心臓を一時間だけ止める毒。
 聴覚と視覚と臭覚だけを奪い去る毒。
 犬は殺すが猫は殺さない毒。
 そしてそれらの解毒薬。
 その功績が認められて、百地の中でも極めて異例だが、新しい流派を興す許可を頂いたのだ。
 もっとも一般的な意見としては、厄介な女を閉じ込めておくため、なあなあで認めさせられたという認識である。
 唯一の救いは、奇黒流派に所属しているのは、黒姫様だけだということか。
 こんな流派が広まったら、世の中破滅だ。

「……さ……おあがりなさい……」

 そう言って黒姫様は俺の目の前に、高そうな茶碗と箸を差し出した。
 ……箸?

「……黒姫様……」

 俺の目の前に出されたのは、小さなラーメンだった。
 黒い。
 唐物の茶入れから抹茶を入れ、お湯を注いで、茶筅でかき回しただけで、こんなにも黒いラーメンを作るとは……。
 どんな錬金術だ。
 まあ、抵抗したって無駄なのは解っている。

「頂きます」

 俺は足を崩して、小さな茶碗に作られたラーメンに、箸を突き刺した。
 御丁寧に、チャーシューだのメンマだのまで添えられている。
 しっかし、不味いなあ。
 地獄の井戸から汲み上げたようなスープだぜ。
 だが人間の慣れと言うものは、恐ろしい。
 常人なら匂いだけで悶絶死するであろうこのラーメンを、俺は一気に平らげた。
 伊達に小さい頃から食ってるわけじゃねえぜ。

「……良い食べっぷりね……十哉だけよ……私の破滅ラーメンを完食出来るのは……」
「一応破滅してるって自覚は在るんスね」
「……もう一杯……逝く?」
「致死量を超えるので、遠慮しておきます」

 このままだと第二段の料理が出てきそうなので、俺は話を進めることにした。
 なんたって、第二段は餃子だからな。
 黒いラーメンをクリアした者のみが出会えると言う、極彩色の餃子。
 捕食者―――この場合、食事をする者の事だ―――を、確実に死へと追いやる、地獄の献立ヘルズ・メニュー
 ……食事って、こんなに緊張感有るものだったか?

「それで黒姫様」
「……なに……かしら……?」

 ふむ。
 今思ったが、真田と黒姫様は、会話のテンポが似ていると思っていたのだが……。
 目の当たりにしてみると、そうでもないな。
 真田の会話の間は、主に句読点で使われるが、黒姫様の間は、訳の解らないところに入っている。
 まあ、どうでも良いか。

「摩理から聞きました」
「……断末魔……を?」
「そんなものは聞いてません。『依頼』の話です」
「……」

 黒いボケがスルーされたからか、本当に話したくないのか。
 黒姫様は、目をそらした。
 小さな茶室に、沈黙が流れる。

「…………」
「なにか言い辛いことなんスか? なんだったら文書で出してもらっても」
「……羊皮紙に……? ……血文字で……?」
「手間隙掛けて、嫌がらせしないでください」

 ちなみに黒姫様のオカルトじみた嫌がらせを、オカルティック・ハラスメント―――オカハラと俺は呼んでいる。
 小さい頃からどれだけ食らった事か。
 手書き発行の大恐怖だいきょうふ新聞―――読むと寿命が100年縮まると言われているアレだ。一回読んだだけで絶命決定の必殺新聞である―――が毎晩届けられる事など、ざらである。
 そりゃ人間、なんにでも慣れるけど、よ。
 俺の人格が不安定なのは、複雑な人間関係から来ていると思うのは、決して責任逃れではないと思う。

「……つまんない……」
「拗ねないで、本題に入ってくださいよ」
「……………………」

 少しだけ戸惑った後、黒姫様は重い口を開き始めた。

「……いつき……最近……会ってる……?」

 樹とは、黒姫様の一人息子で、俺より三つ下の忍者だ。
 ……………………。
 そう。
 恐ろしい事に、黒姫様は既婚なのである。
 たしかに黒姫様は美しい。
 美しいが……。
 このような人と結婚する人間が、この世に居るなんて……いや、人間じゃないのかも知れん。
 事実、この結婚には、恐ろしい話しが存在する。
 結婚相手……黒姫様の伴侶が誰だか、誰も知らないのだ。
 誰に聞いても、誰もあやふやな答えしかしないのだ。
 確かに結婚の事実はある。
 出産の事実も。
 黒姫様が結婚したのは、俺や若宇が生まれた翌年。
 俺たちが一歳の頃だ。
 10万年前とかじゃないのにも関わらず、誰も明確な記憶を持ち合わせてないのである。
『たしか、商社マンだったはず』とか『忍者のエリートだった気が』とか『髪の長い美青年だった』とか『変身ヒーローでスー♪』とか、バラバラな証言しか引き出せないのだ。
 さらに恐ろしい事に……。
 黒姫様の結婚式の写真だ。
 楽しげな一族の表情や、黒姫様の照れたドレス姿は写っていても、肝心の男性の顔が何処にも写っていないのである。
 姿は写っている、姿は。
 しかしどのスナップを見ても、余所見をしていたり、別な招待客に愛想を振りまいていたり、花束で顔を隠されていたり。
 写ってなければいけない角度でも、その表情だけが写っていないのだ。
 実は、俺や若宇が、その男性に抱かれている写真も在る。
 だが……なぜだか不自然なくらい余所見をしているのだ。
 一番ぞっとする写真がある。
 多分お色直しのシーンであろうが……式場の中央を歩く……綺麗なドレスを着た黒姫様と、タキシード姿の男性。
 例によって男性の顔は、黒姫様の持つロウソクの炎で見えないのだが……。
 写っている招待客全員の……笑顔の全員の拍手の手が……まるで合掌のように、ぴたりと合わさっているのだ。
 いったいどれだけの偶然が重なれば、こんな写真が取れると言うのであろう?
 と思ったら、レイナさんの手だけ開いていた。
 超常現象もビックリのリズム音痴である。
 まあそんなオカルトな話はともかく、黒姫様の伴侶―――樹の父親が不明なのは本当である。
 俺の中では、処女受胎説が有力だ。
 この人ならば、そのくらいやってのけるだろう。

「……そういや最近、会ってないっスねえ」

 夜中にトイレに行けなくなるくらいの、恐怖の記憶を押しつぶして、当たり障りないコメントをする。
 まあ最近会っていないのは事実だ。
 母譲りの端正な顔のせいで、透と二人で『百地三大ショタ』と称されている。
 透はそれを利用してエンジョイしているが、樹は男としてのプライドが許さないのだろう。
 自分の顔に、酷くコンプレックスを持っていた。
 俺は三つ年上と言う事もあって、よく樹のことをかばったもんだ。
 主に透や摩理のセクハラから。

「……あの子……恋をした……みたいなの……」
「…………………………はあ」

 樹も年頃だから、その事自体には驚きはしないが……。
 黒姫様から『恋』なんて単語が出てきた事にビックリである。
『樹が人を殺して煮て食った』と言われた方が、まだ納得できるというもの。

「別に良いんじゃないですか。樹も普通の男だし、女顔でもチンコはそこそこのもの持ってますしね」
「……弟は……どんな教育を……してるのかしらね……」

 今、本気で呆れられましたよ、師匠。

「普通の恋なら……良いのだけれど……」
「……なにか問題でも?」

 俺の問いに、黒姫様は悲痛な面持ちで頷いた。

「……相手のお嬢さんは……忍者なの……」
「はあ」

 それが問題なのだろうか?
 遠い昔なら、忍者の女が、人妻になるなんて事は考えらない時代もあったが……。
 今は忍者と言えども、法治国家に生きているだ。
 家柄の問題とか発生する場合も在るが、よっぽどでないと……。
 まさか!?

「相手は……若宇!?」
「……血の池地獄で……顔を洗って……出直してらっしゃい……」

 どうやら違ったらしい。
 相手が若宇ならば、家柄の格差問題も発生すると思ったのだが。
 ちなみに師匠と静流様の結婚の時も、揉めたとか揉めなかったとか。
 それでも結婚できたのだから、師匠の功績が認められたのであろう。
 なんたって俺の師匠は、希代の英雄なのだから。

「じゃあ問題ってのは?」
「……相手のお嬢さんは……伴太郎ばんたろう衆の娘さん……なの……」
「伴太郎衆……それが?」

 伴太郎衆とは甲賀系の忍軍で、百地の中でも比較的大きな部類にはいる家柄だ。
 まあこれといって特徴もない、敢えて言うなら人数が多いだけが自慢の衆派である。
 だが……尚更解らなくなってきた。
 百地の四師老―――『小幡』『加藤』『楠木』『杉之坊』ならまだしも、伴太郎衆如きが……。
 しかもあそこの本家なら、娘が三人居たはず。
 長女次女とも忍者と成らず、一般人の元へと嫁に行っている。
 三女ならちょうど樹と同い年か、少し下くらいだと思ったが。
 答えを導けない俺に、黒姫様が決定的な一言を放った。

「娘さんは……忍者……なの……千代女衆に……入れない……力なの……」
「!?」

 その一言が、全てを氷解させる。
 嫌な話だが……忍者……特に女忍者は、その家柄と実力で扱いが違ってくる。
 例えば男なら、比較的簡単だ。
『依頼』や『指令』から外される、無能者と蔑まれるだけで済む。
 そのため、禄が少なくて悪事に手を染めるものも出てくるが、すぐに粛清されるのが常だ。
 だが……女は……。
 一旦忍びの道に足を踏み入れた者は、抜け出す事が出来ない。
 例えどのような事情があろうとも。
 そして力の無い女は……その身体を持って仕事に当たらなければならない。
 好きでもない男に、裸体を晒さなければならないのだ。
 女だけの集団に、千代女衆というものが存在する。
 千代女衆も男に肌を晒すが……ある意味、千代女衆に選ばれた女忍者は、幸運である。
 男に身体を許さないのだから。
 男に身体を許す事無く情報を引き出し、目的を達する事が出来る。
 それが千代女衆だ。
 ……では……その実力の無い女忍者は……。

「……」
「……解った……かしら?」
「……ええ」

 哀しくて汚い話だが、忍者の世界と言うのは、そういうものだ。
 だが……ああ、そうか。
 伴太郎衆だから、か。
 忍者も、法治国家に生きる種族だ。
 それを拒む事も出来る。
 その後の仕事が無くなったり、酷い仕打ちを受けたり、差別されたりもするが……。
 それをしないという選択も、確かに存在するのだ。
 だが……名の有る流派が、それを許すわけが無い。
 ましてや顕示願望の強い、伴太郎衆だ。
 百地の中枢に、少しでも近づきたいと願っている衆派の中では、許される事ではないだろう。
 だが逃げる事も出来ない。
 忍者と言う宿命から逃げる事……すなわち、忍者最大の禁……抜けるということだからだ。

「……それで……樹は……?」
「……昨日から……帰って……ない……の……」
「……柘植つげはなんて?」
「……まだ……なにも……」

 樹は、奇黒衆ではない。
 青少年にこの流派は悪影響を及ぼすだろうと、幼少の頃から柘植家で修行している。
 つまり樹は、柘植衆の一員なのだ。
 伊賀崎流というのも考慮されたが、伊賀崎流はぶっちゃけショボイので、却下されたのである。
 柘植衆は正統派の伊賀流だし、若忍の育成にも定評のある流派だ。
 黒姫様も苦渋の選択だっただろうが、なにより樹がそれを望んだのである。
 樹は……俺のことを、兄のように慕っていてくれたから。

「……」

 石川流に敵は多い。
 百地内部じゃ孤立しているといっても良いくらいだ。
 その殆どが、やっかみ半分では在るが。
 俺は別に気にならないが、樹は随分と気にしてくれた。
 柘植衆は人数も多く、その内部で出世したら、俺の助けになると考えてくれたのだろう。
 俺の親父が若忍指導に当たるようになって、随分と周囲の反応も変わってきたが……。
 樹はそんな優しい奴なのだ。

「……俺は……樹のこと……弟のように思ってます……」
「……」
「ですが……俺は忍者です……」
「……」
「石川の……百地の守護者と言われる……石川流の忍者です」
「……」
「……黒姫様……」
「……解って……るわ……」
「では」

 俺は黒姫様の顔を見ずに立った。
 見ようとしても、見えなかっただろう。
 着物の袖で、顔を覆っていたのだから。
 この人は、肉親に対する愛情が深い。
 だから……俺にこの話しをしたのだろう。
 捕まるのなら……その命を絶つのなら、せめて俺の手で。
 兄のように思ってくれた樹を、俺の手で。

「……」

 茶室を出て、辺りを見回す。
 子供の頃、樹と良く遊んだ庭。
 腰の双爪が、酷く重かった。
 泣きたい位に。



































 町外れの野原で、ようやく樹が足を止めた。
 逃げられないと悟った……いや違うか。
 最初から逃げられないと思っていたに違いない。
 樹はそれほど馬鹿じゃない。
 少女をかばうようにして、俺と対峙する。

「ようやく覚悟、決まったか?」
「……ペケにい……僕……」
「お前までペケって呼ぶなよ」

 夕暮れ迫る野原で、俺は苦笑を浮かべた。
 背中に隠れたセーラー姿の少女は、俺のことを見ようともしないで、樹の背中にしがみついている。
 自分の運命くらいは解っているのだろう。

「お前を探し出す前、柘植衆に顔を出してきた」
「……柘植に……?」
「ああ。酷く落胆してたぞ。お前には期待していたのにって。最近会わなかったけど、随分熱心に修行してたみたいじゃねえか」
「……」

 俺は腰の双爪に手を掛けた。
 抜刀の構えで、鯉口を切る。

「その娘……伴太郎衆の事は知らんが……」

 少女がびくっと肩を震わせる。
 その反応だけで、いままでどんな仕打ちを受けてきたのかが解った。
 忍者としては、平均的な家庭だったようだ。

「黒姫様は泣いてたぞ」
「……母さんには……柘植様にも悪いとは思っている」
「じゃあどーすんだっ!」

 突然挙げた俺の大声に、二人そろって肩を震えさせた。

「柘植様を裏切り、自分の母を泣かせ、それでお前はどーすんだよっ、樹ぃ!」
「……」

 樹が学生服の懐から、そっと苦無を抜いた。
 忍刀を装備していない今、樹の武器はそれだけだろう。

「それでも僕は……この子を護りたいん……」
「!」

 一足飛びに間合いを詰める。
 せっかく切った鯉口の事も忘れて、樹の頬を思いっきりぶん殴った。

「護るなんて簡単に言うんじゃねえっ!」

 少女と樹、二人そろって地面を滑っていく。
 解ってる。
 これは俺の八つ当たりだ。
 あの時……母さんが攫われた時、俺は何一つ護れなかった。
 口だけだった。
 母さんも……真田も……若宇の事も。
 親父と師匠が居なければ、何一つ護れなかった。
 だからこれは、俺の八つ当たりだ。

「お前のその行動の、どこが護ってんだよっ!」
「…………」
「逃げ出して、それで万事オーケーなのかっ!? 逃げ切れると思ってんのかよっ! この世の中で、百地からっ! 忍者からっ! 俺からぁっ!」
「……」
「……自分たちの……宿命から……」
「……………………」

 樹が立ち上がった。
 中腰に苦無を構え、自分の一番得意とする陰忍……飛猿とびざるに全てを賭けるつもりで。
 その瞳には、決意が宿っている。
 俺を殺そうとする決意が。
 覚悟、決まったのか。

「逃げ切ってみせる……何万の忍者が相手でも……例えペケ兄からでも……」
「そうじゃない……そうじゃねえんだ、樹……」
「……」
「俺の師匠……お前の叔父さんは、こう言ってた」
「……」
「宿命ってのは、逃げられないから宿命なんだと。宿命ってのは逃げたり、嘆いたり、立ち向ったりするもんじゃないんだと」
「!」

 樹が飛び込んできた。
 ……と思ったら、俺の目の前で消え去る。
 高速サイドステップで、横に飛んだのだ。
 柘植流、飛猿の術。
 ワンステップとハーフステップを駆使して、敵を幻惑する陰忍である。
 古来より伝わる、初歩的な陰忍だ。
 だが……樹の飛猿は、今まで見たどの術者よりも速く、どの術者よりも鋭かった。
 樹が今、一番自信を持っている術。
 全てを俺にぶつけてくる。

「……」

 右腰に結わえてある、猫爪の鯉口を切った。
 相手が全てをぶつけてくるなら、俺もそれに答えなくては成らない。
 ましてや、樹。
 樹なのだ。
 女顔を囃し立てられ、苛められて泣いたっけ。
 若宇と三人で、海ではしゃいだよな。
 三人で祭りにも行ったよな。
 小遣いの足りなくなった若宇に、二人で綿飴を買ったっけ。
 透と摩理に、悪戯されようとしてたとき、俺が助けたんだぜ。
 純やらみと出会って、皆でキャンプとか行ったよなあ。
 二人で涙目になりながら、黒姫様のラーメン食ったの、覚えてるか?
 樹。
 弟のように思っていたお前だから。

「……宿命ってのは……」

 俺が、斬る。

「宿命ってのはなぁっ!」
「やぁっっっ!」

 誰も居ない空間に、皮当を外して猫爪を左順手で抜刀。
 右側面から現れた樹が、苦無を振りかぶった。
 空中で猫爪を離す。
 切っ先は天を指している。
 樹の苦無が、俺の首筋に……。

「!」

 吸い込まれる瞬間、俺は右順手で猫爪を握りなおした。
 そのまま身体を沈め、回転しながら苦無を躱す。

「!?」

 剥き身の刀身が、樹の腹を斬り裂いた。
 鮮血が俺の顔に降り注ぐ。
 普通の忍刀なら不可能な二重抜刀も、猫爪の軽さが可能にしてくれる。

「ぐっ……」

 俺の刀が樹の……大事な弟分の身体を斬った。
 だがまだだ。
 俺の弟は、このくらいでへこたれたりしない。
 逃げるなんて選択をした、ヘタレな弟だが……それを実行しようとするくらい、根性の入った弟なのだ。

「!」

 しゃがんだ体勢で、刀を振る。
 遠心力で刀を回し、順手から逆手に持ち返る。
 捻った身体を戻す反動を利用して、水平に薙いだ。
 樹の足に、斬線が走る。
 石川流抜刀術、松尾まつお

「つっ!?」

 そりゃ両足の太腿を斬られれば痛いだろう。
 でも……まだ終わってないんだよ。
 捻った身体を戻し終え、しゃがんだまま猫爪を納刀。
 樹は俺の後方だ。
 左逆手で熊爪を、右逆手で猫爪を抜刀。
 一瞬だけ、二刀をこの手に持つ事になる。
 だが石川流は、二刀流派じゃない。
 熊爪を、猫爪の添えられた鞘へ。
 熊爪が猫爪を弾き、つば同士が咬み合い加速する。
 納刀で加速した、後方への突き。

「!」

 猫爪の切っ先が、樹の胸に突き刺さる。
 石川流抜刀術……蓮華れんげ
 お前の母と同じ名の技だ。

「……が……ぐっ……」

 樹は苦無を抱えたまま、膝から崩れ落ちた。
 膝を着いて、何かを祈るような樹の姿。
 ああ。
 解ってるよ。
 立ち上がり振り返って、猫爪を上段に振りかぶる。
 狙いは首筋だ。

「いやぁぁぁぁっ!!!」

 振り下ろそうとした猫爪の下に、突然少女が現れる。
 さっきまで呆けていたのだが、樹の最後を見て覚醒したのだろう。
 そりゃそうだ。
 それでなければ、樹が報われない。
 俺はこの少女の事を知らないし、知りたいとも思わなかったが、この瞬間だけ微笑む事が出来た。

「お願いぃ! もう止めてぇっ! もう……戻るからぁっっっ! 菊乃きくの、どうなってもいいから、樹ちゃんだけはっ!」
「うるさい」

 俺はそのまま刀を振り下ろした。
 少女の首筋に切っ先がめり込み、皮当越しに、意識が無くなる様を伝えてくる。
 崩れる少女を見ながら、俺は初めて、この少女の名前を聞いたなあ……なんて考えていた。

「良い子を好きになったじゃねえかよ、樹」
 
 一瞬だけ樹が動いたような気がしたが、多分気の迷いが見せる幻覚だろう。
 改めて猫爪を振り上げ、樹の延髄に振り下ろす。
 刀身が樹の首にめり込み、樹はそのまま前のめりに倒れた。
 さっき自分をかばった少女の上へと。
 樹の胸から流れ出した血が、少女の白い服を染め上げる。
 重なったその姿はまるで、殉教者のようだった。

「……」

 どこがと問われると、答えに窮するんだけどな。
































「よお樹♪」
「……」

 俺は満面の笑みで、ぶす腐れている樹の前に立った。
 樹は全身包帯だらけで、俺のことをにらんでくる。
 まあそうだろうが、にらまれる筋合いは無い。
 血止めまでした挙句、病院まで運んでやったのだから。
 最後の蓮華、そして振り下ろした猫爪には、皮当をつけておいた。
 だからわざわざ納刀してから、発動しなおしたのだ。
 本来なら、松尾から蓮華への連携は、納刀し直しなどしないのだが、まあそんなことを説明しても、今の樹の気分は晴れないだろう。

「機嫌悪そうだな」
「……良いわけないじゃん」

 お。
 いつもの樹の口調だ。
 本来の樹は、まだ中等部に通う少年なのだ。
 拗ねた口調も、大きな女の子おねえさまたちにはたまらないだろう。
 流石、三大ショタの一人。

「なんでか、お兄さんに言ってみ」
「……母さんに……」
「怒られたか? 当然だ」
「……見舞いと称して……新作のラーメンを食わされた……」
「…………」
「…………」
「……黒かったか?」
「どす黒かった」

 何してんだか、あの人は。
 だがまあ、あの涙に免じて勘弁してやろう。
 禄もきちんと貰ったしな。
 久しぶりに懐があったかい。

「ペケ兄にも、後から食わせるってさ」
「……」

 この涙に免じて勘弁してくれないだろうか?
 慣れてるだけで、不味い事には変わりないのだ。
 俺は自分の未来に慄きながらも、ベッド脇に置いてあった椅子に腰掛けた。
 キャスター付きの小さなロッカーの上には、見舞いの果物が載せられている。
 俺はその果物カゴの中から、リンゴを一個取り出した。
 今日は五月に入ったばかりだと言うのに、蒸し暑くて喉が渇いたからだ。

「誰からだ?」
「……康哉さんと……らみさん、じゅんさん、レイナさん、静流様から」
「のわりには、数が少ないな」
「……半分以上、若宇様と大河さんが食ってった」
「……」

 齧ろうとしたリンゴを、口から離す。
 あの親子と同じ行動なんて、俺のプライドが許さない。
 リンゴをカゴに戻しながら、樹に呟いた。

「話せよ」
「……何を……?」
「不機嫌の、本当の訳」
「……………………」

 本当は解っている。
 今日はそれを説明しに来たのだから。
 じゃなければわざわざ、敗北者の元を尋ねたりはしない。
 樹はわざとらしく窓の外を見つめた後、こちらを振り向かずに呟き始めた。

「……どうして……」
「ん?」
「どうして……殺さなかったの?」

 それは樹自身のことだろう。
 里から逃げ出そうとした忍者、それを助けようとした忍者は、抹殺される。
 抜けようとした者の末路だ。
 それが解っていて、樹は逃げようとした。

「そりゃお前……お前の事、殺したら……黒姫様に呪われるからな。死んでも魂の安息は訪れまい」
「ふざけないで!」
「……死ぬ必要は無いからだ」
「……え……」

 樹が振り向いた。
 日の光を浴び、戸惑った表情で。

「あの出来事は、演習だと言い張った。柘植にも百地にも」
「そんな……納得するはずがっ!」
「納得させたんだよ。石川流の力、舐めんなよ」
「……………………」

 久しぶりに源牙様に会って、直訴した結果だ。
 相変わらず迫力の有るジジイだったぜ。
 色々と条件をつけられもしたが、それは今、ここで語るべきことではないだろう。
 実際、樹には何の関係もないのだから。

「ねえ、ペケ兄……」
「あん?」
「あの……」

 言いよどんだ。
 まあ、聞きたい事は解っている。
 だけど、聞き辛いんだろう。
 あの少女の事だ。
 石川流がかばってくれた自分は兎も角、抜けようとした女忍者が、どのような末路を辿るのか……。
 知らないわけはあるまい。
 命を落とすだけならまだしも、女にはもっと使い道がある。
 両手両足の腱を斬られ、歯を全て抜かれた女の使い道が。
 逃げ出す事も出来ず、舌を噛み切る事も出来ない女の末路が。
 それもまた、忍者なのだ。

「……なんでもない……」
「そうか」

 そう言いながら俺は立ち上がった。
 師匠が師匠だけに、俺の言動も芝居染みてきたな。
 悪い傾向だ。
 立ち去ろうとする俺の背後から、樹の呟きが聞こえてきた。
 ナイスタイミングだ、弟。

「……僕は……絶対にあの子を助け出す……例えどんな姿に……」
「ああ、そうだ。あの娘……たしか菊乃って言ったっけ」
「!?」

 明らかに動揺している気配。
 ……楽しい。
 師匠が芝居仕立てで俺をからかう気持ちが、なんとなく解ってしまった。
 やばい。
 SIKビルの屈辱を思い出して、あのような人間にはならないと誓った。
 だが……まあ、今だけは良いだろう。

「家に戻した。俺が」
「……そっか……」
「一応……本当に一応だが、あの子は俺がもらう事になった」
「!?」
「……気を静めろ。方便だよ」
「……方便?」
「ああ。石川流の俺が、しかも百地に一番近い俺が、めかけとして取る事になったんだ。処女のままよこせって言ったら、あの俗物ども、大喜びしてたぜ」

 その場合、本妻が気になるのだが。
 あの噂……皆信じてるんじゃねえだろうな。
 誰が、あの馬鹿なんかとっ!

「……ペケ兄……」
「だから身体を使った仕事なんか、やらせないだろ。後はお前らの問題だ」
「……………………」
「安心しろ。俺には……大事な弟の女を、寝取る趣味は無い……お互いに命を掛けて護ろうとする二人を、引き裂く趣味なんか無い」
「……ペケ兄……ペケ兄……ペケに……」
「泣いてんじゃねえ、馬鹿」

 嗚咽が静まるまで、ドアを見つめて突っ立っていた。
 この二人は、何を護ったのだろう?
 もしこんな逃避行が無くて、ただ単に樹から相談されたとしたら、俺はどう答えたのだろう?
 俺はこの二人に、何を投影していたのだろう?
 樹には偉そうにしているが、俺も一緒だ。
 答えなんか全然見つからない。

「……ねえペケ兄……」
「なんだ?」

 嗚咽も収まったのか、樹が問いかけてくる。
 待ってましたの瞬間だ。
 今日はこれを言いに来たのだから。

「……宿命って……なに……忍者に生まれた意味って……宿命って……何なんだろう……」
「……………………」

 事前から用意してあった答えが、頭の中を駆け巡る。
 だが……。
 だが、その言葉が、口から出て行かなかった。
 宿命。
 真田の嫌う言葉。
 若宇が受け入れたもの。
 師匠の教え。
 そんなものが頭のどこかに引っかかって、答える事が出来なかった。
 あれほど事前に用意した台詞なのに。
 ここが一番の決め時なのに。
 どうしても言えなかったので……。

「それはお前が見つけろ」

 と言ってしまった。
 言ってから気付いたのだが……これじゃまるっきり、師匠じゃねえか。
 あんまりにも悔しかったので、俺流にアレンジする事にした。

「俺も探す」

 そう言って病室のドアを閉めた。
 病室のドアを閉め、階段を下って中庭へ。
 お日様が眩しかった。
 日の光に目を細めながら……あの時、師匠も同じ気持ちだったんじゃないのか……なんて風に、思ってしまった。















 END















5月3日  (晴れ)


 せっかくのゴールデンウイークなのに、だれも遊んでくれなくてつまんないっ! ゆっきーは実家の墓参りとかで帰っちゃうし、純ちゃんは怪しげな発明の実験台になるとかで忙しいし、らみっちは埋めた木の実の探索とかで帰ってこないし(忘れんなよっ!)、とーるは……痴漢行為かなあ?

 今思ったけど、とーると摩理ちゃんって、えっちなことしないのかな? あれだけ桃色原理主義者な二人なんだから、ペケにセクハラなんかしてないで、二人ですればいいのに。

 ……って、違うのっ! いまはそんなこと、どーでもいいんだってーのっ! あたしは暇なんだっ! 腹いせに、樹の見舞いの品、全部食ってやった。そしたら、おかーちゃんに怒られて、新しい果物を買いに行かされた。悔しかったのでリンゴの中に、蓮霞おばちゃんから貰った毒薬を仕込んでやった。やっぱ、毒物を仕込むならリンゴだよね♪

 でも……ちょっとだけ、樹が羨ましいかも。じーちゃんやおとーちゃんから話を聞いたし、樹もそれとなく話してくれたから、大体知ってるけど……。命を掛けての逃避行なんて、ちょっと憧れるかも。あたしもそんなときが来るのかな? いや、その前提として、酷い目にあっちゃうんだけど……それでも、あたしを連れて逃げてくれる人……。

 あー! 乙女チックばりあー! 説明しよう。 乙女チックばりあーとは、乙女チックな妄想を防ぐ事の出来る、ビニール製のばりあーの事であるっ! このばりあーを張った時、妄想の大部分は防がれるが、えっちな欲望はスルーするー……。

 あほらし。もう寝よう。だけどなんかイライラするので、ゴールデンウイーク明け、ペケがロリコンだって噂を流しておこう。いや、明日にでもすぐに。



 おわり。




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