「………はぁ………はぁ……」

 俺は笑う膝を押さえながら、急すぎる坂道を登って行く。

 つーか、坂道ってゆーよりは獣道だぞ、こりゃ。

 両側にそびえる、竹の林が鬱陶しい。

 なんだってジーちゃんは、こんな所に土地持ってたんだろう?

 ちっとは俺の事も、考えて欲しいもんだ。



「くっ……は………はぁ……はぁ………」



 でも、それは言ってもしょーがねー。

 もうジーちゃんは、俺のことなど考えてくれないから。

 背中に背負ったナップザックが、肩に食い込んでくる。

 靴の中では、俺の足が汗で滑り出してきた。

 靴のサイズが合わなかったかな?



「………はぁ……はぁ……はぁ……」



 もう直ぐだ。

 もう直ぐ竹の道が開けて、あの場所に着く。

 微かな記憶の中にある、あの場所。

 それにしても………喉渇いた。

 まさかバス停からここまで、自販機のイッコも無いとは思わなかった。

 無闇やたらな田舎に乾杯♪



「はぁ……はぁ……はぁ、はぁ……」



 ビール飲みてー。

 キンキンに冷えたビールが飲みてー。

 日本酒でも可。

 冷でお願いします♪

 乾いた喉がひり付く。

 背中も痛いし、脚も痛い。

 なんで俺、こんな事してんだろ?

 ………自己満足?



「はぁ、はぁ、はぁ……はぁ、はぁ……」



 手に持った、小さなガラス箱。



「………あっ!?」



 ようやく竹の繁る道が開けた。

 小高い丘の上。

 心地良い風が、汗ばんだ俺に吹き付ける。

 風に揺らされる笹の葉の音が心地良い。

 喉の渇きも、一瞬忘れる。

 ………一瞬だけだけどな。







「………来たよ………ジーちゃん………」

















    『お山』
















「でけー病院だな、おい。医者って儲かるんだなぁ……」

 思わず率直な感想。

 多分、素人じみた感想だろうな。

 俺は無闇に大きな自動ドアをくぐって、病院内に入った。

 独特の雰囲気に、独特の匂い。

 病気じゃなくても、病気になっちまいそーだ。



「済みません……見舞いに来たんですけど」

 受付の女の子に、軽い挨拶をしながら、病室を訊ねる。

 お袋も、病室くらい教えてくれてもいーだろうに。
  
 ………いや、違うか。

 教えたくても、教えられないんだろうな。

 知らないから。

「山見さんでしたら、503号室になります」

「あ、ども」

 結構可愛い女の子に後ろ髪引かれながら、エレベーターに乗り込む。

 手に持ったおざなりな見舞い品が、少しだけ重くなった。

 ジーちゃんって何が好きなんだっけ?

 もう十年以上も会って無いからなぁ……

 エレベータの中で、思わず昨日の事を思い出す。







 ………………

 …………

 俺は大学の入学準備も終わって、安アパートに寝転んでいた。

 もう直ぐ二月になろーとしている、寒い部屋。

 部屋の中は、家具も何にもなーし。

 国内進学に反対していた両親との、和解交渉決裂の結果だ。

 まあ、自分で決めたんだし、あの家に帰らないで済んだだけでもラッキ♪

 大体後継ぎなんて、俺の柄じゃねーつーの。

 俺は俺の成りたいものになるんだ。

 ………成れるかどーかは、運と実力次第だが。

 自虐的に苦笑していると、俺の唯一の財産である携帯電話が鳴った。

 流行の着メロなんかじゃない。

 ピピピという、質実剛健な音だ。

 ……質実剛健ってどんな意味だっけ?

 よく俺、大学に入れたなぁ……

 ま、そんなことはともかく。

「………あいよ」

 表示された番号から、思わず不機嫌になる。

 家からだった。

 また無駄な説得かと思ったんだが、今回の内容は違った。



 ………………ブッ。

 数分後、嫌な気分を押さえながら電話を切る。

 そーゆーのが嫌だから、あの家を出たのがまだ解んねーのか!

 あのハハオヤは!

 なんでもこの近くの病院に、ジーちゃんがしんぞーの病気で入院したらしい。

 よくは覚えてないが、結構歳だったからな。

 人間長く生きてれば、色々なところにガタが来るのは当たり前だ。

 つっても、お袋が考えてる事は解っている。

 ジーちゃんに媚を売って、遺産の分配を大目に取ろうとしているのだ。

 ジーちゃんは、結構資産持ちだからな。

 俺はそんなギスギスした家が嫌で、一人暮らしを始めたというのに。

 三年経っても、まだ理解できないらしい。

 とは言え……俺、ジーちゃんの事、少しだけ好きだったな。

 小学生の頃、よく遊びに連れてって貰ったっけ。

 夏休みだけ訪れる、ジーちゃんの家で。

 都会でしか暮らした事の無い俺にとって、ジーちゃんの遊びは面白い物だった。

 竹馬、竹とんぼ、竹竿での魚釣り……

 今考えると、竹尽しだな。

 でも……楽しかった。

 あの瞬間があったから、俺は俺で居られる。

 そんな風に思ったら……ジーちゃんに会いに行きたくなった。





  ガー……

 無闇に気に障るエレベーターの扉の開く音。

 もっと愛想良く出来ないもんかね。

『いらっしゃいませ♪またどうぞ♪』とか。

 ………病院で、それは問題有るか。

 などと下らない事を考えながら、503のプレートを探す。

 廊下には消毒液らしい、鼻の通る匂いが充満している。

 病院ぽい。

 って、病院か、ここ。

「………っと、解んねーぞ、オイ」

「病室……お探しですか?」

 俺の独り言に、後ろから答える気配が有った。

 ちょっとだけテノール掛かった、可愛らしい声。

 思わず期待してしまう。

「あ、はい。503号……」

 振り向いた俺の視界に入ってきたのは……美人の看護婦さん。

 ピンク色の白衣が、無闇に可愛い。

 ……って、ピンク色じゃ白衣って言わねーだろ、俺。

「あ、山見さんのご家族の方?」

 看護婦さんは、見た所、俺よりも少しだけ年上な感じだ。

 ショートカットが良く似合う♪

「はい。見舞いに来たんですが、病室が解らなくって」

 などと、良い子ぶって答える。

 第一印象は、OKだな。

「私も山見さんの病室に行くところだったんです♪ご一緒に」

「あ、はい。お願いします」

 俺の返事に頷いて、看護婦さんが歩き出した。

 何と無く視線を外しながら、後ろを着いて行く。

「でも、山見さんの所にお見舞いが来るのは、初めてなんですよ」

「そうなんですか?」

「ええ。入院して、三ヶ月になるんですが、初めてです」

 看護婦さんは、廊下の端を歩きながら呟いた。

 けっして俺を責めている声色ではない。

 少しだけ悲しい響き。

 その事が余計に、俺を苛んでいる気がした。

 三ヶ月…………

 知らなかったとは言え、反省。

「俺、最近この近くに越して来たんで。これからはちょくちょく来ます」

 別に、この看護婦さんに会いにこようって気持ちじゃない。

 本当だ。

 本当なんだってば。

 って、誰に言い訳しているか解らない。

「あ、ごめんなさい……」

 看護婦さんは、ちょっと横目で頭を下げた。

 それは多分、俺がこの近くに居なかった事が解ったからだろう。

 でも別に、謝ってもらうほどの事じゃない。

 後からお茶でも一緒にしてくれればチャラだ。



「ここです。山見さ〜ん。お見舞いと検温に来ましたよ〜」

 看護婦さんが、病室のドアを開けて覗き込んだ。

 廊下の一番端の病室。

 だが、俺は検温に来た訳じゃない。

 その言い方だと、俺が見舞いついでに検温に来たみたいじゃないか。

 いや、別にしてもいいけどさ。

 検温。

「見舞い〜?誰や〜」

 病室の中から、しゃがれた関西弁。

 聞き覚え有るような無いような、ジーちゃんの声。

「俺だよ。ジーちゃん、久し振り」

 そう言いながら、看護婦さんの後に続いて病室に入る。

 真っ白な病室。

 きちんと畳まれた、白いカーテン。

 パイプのベッド。

 少しだけくすんだ色の床。

 何も無い空間。

 その寂しげな部屋の中、ジーちゃんは窓の脇に立っていた。

 白い部屋着から見える浅黒い肌。

 やせ細った四肢。

 顔色の悪さが、一目瞭然だ。

 本当に、俺のジーちゃんか?

 記憶に有るジーちゃんと違いすぎる。

 俺のジーちゃんはもっと……

 もっと……何だ?

「ン〜と……誰や?」

 それはジーちゃんも同じだったらしい。

 俺のことが認識出来ないでいる。

 十年ぶりだもんなぁ。

「久し振り、ジーちゃん」

「………誰や?そか!解った!」

 暫らく俺の顔を見詰めていたジーちゃんが、ポンと手を打った。

 ようやく解ってくれたらしい。

「隣の崎ちゃんの孫のまー坊」

 知らねーよ!

「………ハズレ」

「ん〜………そか!隣の崎ちゃんの孫のちー坊」

 誰だよ!

「………違う、俺は……」

「隣の崎ちゃんの孫のかー坊や!」

「違うって。光一だよ。正志の息子の光一」

 苦笑しながら、ベッド脇のキャスターロッカーに見舞いの果物を置く。

 どーでも良いけど、孫の多い人だ。

 隣の崎ちゃん。

「なんや、こういちか。はよ言わんかい」

 そう言って、痩せ顔のジーちゃんが軟らかく笑った。

 言う暇無かったじゃねーか。

 名付け親なんだから、もう少し早く気付いて欲しい。

「どう、具合は?」

 看護婦さんに指示されて、ベッドに座るジーちゃんに尋ねる。

 看護婦さんは、部屋着の腕をまくりながら、血圧計らしきものを装着していた。

 おっとりした感じの看護婦さんだが、仕事はてきぱきとしている。

 ナイス。

「どーもこーも、あらへん。バーちゃんに会うのも、もう直ぐやな」

 バーちゃん………

 記憶の中で、霞のかかる姿。

 俺が本当に小さい頃……亡くなっている。

 覚えているのは、優しげな笑顔だけ。

「山見さん……そんな事言っちゃ駄目です。こうしてお孫さんもお見舞いにきてくれたんですから」

 なにやら作業しながら、看護婦さんが頬を膨らませた。

 可愛い仕草だ。

「そだよ。早く心臓なんか直してくれないと」

 自分で言ってて何だが、『直してくれないと』何だろう?

 そりゃ身内なんだから、治って欲しい気持ちは有る。

 それは嘘じゃない。

 だが、十年ぶりに会った俺に、そんなことを言う資格なんて有るのだろーか?

「それに……病院は患者さんを治すところですからね♪」

 ジーちゃんの腕に聴診器を当てながら、看護婦さんが顔を上げた。

 その微笑が………綺麗だった。

 可愛いとか、美人だとか言うんじゃない。

 慈愛。

 そんなものが感じられた。

 俺の忘れていたもの………いや、知らなかったものだ。

 不遜な気持ちを持った己を、少しだけ恥じる。

「身体は……大事にしてよね、ジーちゃん」

 己の不甲斐無さ。

 薄情さ。

 見っとも無さ。

 そんなものが俺の心に充満して、それしか言えなかった。

 だけど……そんな俺の言葉に……

 ジーちゃんは、ふにゃりと笑ってくれた。





「あ、すみません〜。ちょっと待ってください〜」

「ん?」

 ある程度の近況報告をして、病室を後にした俺を呼び止めるテノール声。

 どうやらさっきの看護婦さんのよーだ。

 振り返りながら、思わず自分の電話番号を反芻する。

 ………良し。

 いつ電話番号を聞かれてもOKだ。

「何でしょう?」

 追いかけてきた看護婦さんに、満面の笑みを返す。

「済みません、呼び止めてしまいまして」

「いえいえ。で?」

「はい……あの……」

 聞き辛そうだ。

 結構純情そうな女の子だもんなぁ。

 良し、ここは一つ俺のほうから……

「山見さんのお見舞い……また来て頂けますか?」

 は?

 ………不遜な己を恥じたばかりだというのに。

 俺って奴は……

 でもまあ……健康な成年男子だったらしょーがねーよな。

 なんて、自分に言い訳してみたりして。

「あんなに嬉しそうな山見さん……初めてでした」

 看護婦さんが、少しだけ表情を曇らせた。

 本当にジーちゃんの事を思ってくれているのだろう。

 そういう職業だと、割り切る事も出来る。

 でも……違うな。

「嬉しそう………って、あの表情が?」

 思わず聞き返してしまった。

 あの苦虫を噛み潰したような表情が、嬉しそう?

「はい♪凄く……嬉しそうでした♪」

 看護婦さんが、笑顔で頷いた。

 解り辛いジーちゃんだ。

 あれが嬉しそうな表情だとは……

「患者さんの身体を……私たちは、治す努力は出来ます。でも……」

『直す事が出来る』と言わない所が正直だ。

 俺だって子供じゃない。

 どうにも成らない事があるの位、知っている。

「心は……癒せません」

「そんなこと無いですよ」

「………え?」

 俺の返事に、看護婦さんが目を丸くした。

「ジーちゃん……看護婦さんの事。慈しむような目で見てました。それだけでも、これまで良くして貰ったの

 が解ります」

「……………」

「それってきっと、病院の皆さんのお陰だと……そう思います」

 本当は『貴方のお陰です』って言った方が良いのだろう。

 女性の気を引くのは、そっちの方が効果的だ。

 でも……なんとなく、そんな思いは湧いてこなかった。

 なんとなく、だ。

「……………そんな」

 本来なら、俺たち家族が負うべき事。

 それを代わりに果たしてもらっている。

 そんな風に思えたから。

「これからもよろしくお願いします。………俺もちょくちょく来ますんで」

 そう言って、素直に頭を下げられた。

 そんな自分が……ちょっと嬉しかった。
 
「………はい♪」

 看護婦さんは、少しだけ瞳を光らせながら……明るく微笑んだ。

















  俺はそれから何回か、ジーちゃんの病室を訊ねている。

 別に、あの看護婦さんに会いたいって訳じゃない。

 本当だ。

 本当だってば。

 って、誰に言い訳しているのか解らない。

 最初は訝しげに思っていたジーちゃんも、徐々に慣れていった。

 俺の居る空間に。

 俺も徐々に解っていった。

 ジーちゃんの笑顔。







 或る花曇りの日。









「この病室って、結構日差しが良いよな」

 俺は窓枠にもたれ掛かっている、ジーちゃんに言ってみた。

 俺がこの病室を訪ねると、必ずといって良い位、ジーちゃんは窓枠にもたれ掛かっている。

 遠くを見るように。

「そやな〜。ありがたいこっちゃ」

 俺への返答もそこそこに、ジーちゃんはまた窓の外を見詰める。

 やっぱり退院したいのだろうか?

 でもジーちゃんがここを退院したとしても、また一人暮らしに戻ってしまう。

 俺が一緒に住めれば良いんだが、もうすぐ大学も始まってしまうしな。

 俺は何も出来ない気持ちを押さえて、ベッド脇の椅子から腰を上げた。

 ベッドでは、看護婦さんがシーツの交換をしてくれている。

 別に胸元なんか覗いていた訳じゃない。

 本当だ。

「………なんか見えんの?」

 俺はジーちゃんの脇に立って、視線を追ってみる。

 視界には、薄汚れた灰色の町が広がるだけ。

 俺の暮らす町。

「なんも見えんなぁ。ここからは、なんも見えん」

「………………そっか」

 ジーちゃんは、森の仕事をして生計を立てていた。

 一時期の好景気で資産価値が上がって、なんとなく金持ちになってしまったが。

 そんな資産を利用して、俺の家族や親戚は成り上がって行った。

 俺はそんな家族が嫌いで。

 家を……出た。

「なんか食いたいものある?」

「なんや突然」

 そういってジーちゃんが笑った。

 細い笑み。

「いや、なんか買って来ようかと思ってさ。なんか有る?」

 本当に聞きたい事は、別に有った。

 だけど、それは俺には叶えられないから。

「そやな〜。ないな、別に。ここの飯は美味いから。こういちも一回入院してみたらわかる」

 真顔でそんなこと言われてもなぁ。

「俺は何処も悪くないよ」

 そんな苦笑いしか出来ない。

 シーツを交換している看護婦さんも、苦笑いだ。

「んじゃさ、なんか欲しいものは?買ってくるから」

 なんとなく意地になっている俺。

 とはいえ、『買って来られる』物をリクエストして欲しいってニュアンスは含んでおく。

 バーちゃんとか言われたら、墓荒らししか手段は無いからな。

「ん〜……別にないなぁ」

「そんなこと言わないで、何か考えてよ」

「どしたんや、突然。景気ええなぁ。銀行強盗でもしたんか?」

 するか!

 別にジーちゃんのことを考えて、何かしてやりたいって訳じゃない。

 何も出来ない俺が嫌なだけなんだ。

 だから金で買えるもので誤魔化そうとしている。

 それだけなんだ。

 それだけ……なんだ。

「なにもいらん。ええか、こういち。男は何か、ほしーだのゆうとる内は、所詮半人前や」

 言葉が出なかった。

 その言葉、俺の両親にも聞かせて欲しいもんだ。

 このジーちゃんから、どーしてあんな親が産まれたのだろう。

 別にジーちゃんが産んだ訳ではないが。

「じゃあさ………どこか行きたい所は……有る?」

 聞かないようにしていた問い。

 思わず口から出た。

 そんな俺の問いに、ジーちゃんは一瞬顔をしかめたかと思うと……

 ふにゃりと笑った。

 いかついジーちゃんの表情が緩む。

 何かを懐かしんで、思い出すように。

「そやなー……お山に行きたいなぁ……」

「……お山?」

「覚えてへんか?一度連れてったコトあるやろ。ワシの生まれたお山」

「……うん」

 覚えている。

 俺が本当に小さい頃、一度だけ連れて行ってもらった林の中にあった丘。

 ジーちゃんはあそこを『お山』と呼んでいた。

 竹の道を抜けて、坂道を登って。

 本当に小さな俺は、ジーちゃんの大きな背中におぶられて。

「今はなんもないけど。あのお山に行きたいなぁ……」

 初めて聞いた、ジーちゃんの願い。

 でも俺はそれを叶える事が出来ない。

 日に日に弱っていくジーちゃんを、ここから連れ出すことなんて出来ないから。

 ジーちゃんを元気にしてやる事も出来ない。

 そんな俺が情けなくて………

 ただ俯く事しか出来なかった。

 そんな俺を見て、ジーちゃんは静かに呟いた。

 優しげに。

 でも力強く。

「なにを泣くことがあるんや、こういち。男は簡単に泣いたらあかんでー」

 情けない俺は……涙を流す事しか出来なくて。

 そんな俺が、余計に情けなくて。

 俺は馬鹿みたいに突っ立って、馬鹿みたいに泣いていた。

「男は、どんな辛い事あっても、ぐっ!……っと歯ぁ食いしばるんや。誰にも涙なんか見せたらあかん。腹、

 引き締めて、ぐっ!……と、堪えんかい!」

 ジーちゃんの細くて麻黒い手が、俺の腹を掴んだ。

 くすぐったい。

 そこは俺の弱点なのだ。

「………うん」

 そんな間抜けな返事しか出来ない。

 くすぐったいから。

 くすぐったくて………涙が溢れる。

 本当だ。

「わかったかー?」

「うん……解ったよ、ジーちゃん」

「そか。ほな、これは小遣いや」

 そう言って、歪む視界の中のジーちゃんが、ベッドの脇のキャスターに歩み寄る。

「?」

 なにかごそごそしてる。

 シーツを直し終えた看護婦さんも、そのジーちゃんの行動を見ていた。

「ほれ」

 ジーちゃんが放り投げてよこした物は………なんだ?

 まぢでなんだか解らない。

 空中でパタパタと音を立てる、小さな紙の塊。

 花びらのような。

 そんな何か。

 ピタリと俺の手に収まる。

「………何これ?」

 その塊は、何かの花の様だった。

 薄汚れた雑誌を切って作ったんだろう。

 幾枚かの切抜きを束ねて、輪ゴムで止めてある。

 あ……先週のマンガだ。

 読んでないんだよな。

「見て解らんか?ひなげしや」

 ジーちゃんの呟きに、思わず手元の紙束を見る。

 ………これが?

「あのお山に咲いとったやろ。ジーちゃん、あの花、好っきでなぁ」

 ジーちゃんが、恥ずかしそうに天井を仰ぐ。

 その視線の先を、俺も追ってみた。

 何も無い白い天井。

 零れる涙が、口の中に入って塩辛い。

「ジーちゃんな、あの花見ると元気になんねん。ちっさい花でも、元気は一杯詰まってるんや。解るか、こうい

 ち」

「………うん」

 手元にある紙の束。

 とてもじゃないけど、ひなげしなんかには見えない。

 でも……でも……

「………ジーちゃん」

「ん?なんや?」

「………待合室の雑誌は、切り取っちゃ駄目なんだよ」

 俺は涙でぐしゃぐしゃに成りながらも、なんとか笑えた。

 手元にある紙の束。

 ジーちゃんの作ったひなげしと言う名の元気。

 それが俺に笑える力をくれた。

 俺の台詞を聞いて、少し意外な顔をしたジーちゃんが、再びふにゃりと笑った。

 いかつい顔をした俺のジーちゃん。

 その笑みが見れたことが誇らしくて。

 嬉しくて。

「大目にみんかい」

 そう言って笑うジーちゃん。

 嬉しかった。











 ………………………

 …………………

 ……………



「どうもお世話に成りました」

 俺は病院の前で、前屈するほど頭を下げた。

 向かい合った看護婦さんも、頭を下げる。

 通り行く人が、何事かといった視線を向けてくるが、別に知った事じゃない。

「……………なにも出来ませんでした……本当に………」

 頭を下げたままの看護婦さんの肩が震えている。

 俺はほんの少しだけ可笑しかった。

 笑うのは不謹慎なんだろうけどな。

「そんな事……無いです。………病院の皆さんには……感謝してます」

 俺の台詞に、看護婦さんが顔を上げた。

 丸い瞳が、少しだけ潤んでいる。



  あの後、ジーちゃんは何日かして亡くなった。

 あっという間に。

 小康状態も無いままの、ジーちゃんの旅立ち。

 本当にせっかちな人だ。

 ま、それもジーちゃんらしい。

 最後の最後まで、俺の家族も親戚も顔を見せなかった。

 ただ、事務的な葬儀屋が仕事をこなしてくれただけ。

 ジーちゃんの遺体は、俺の家に移送さえているだろう。

 俺は、ジーちゃんの身の回りを整理しに来ただけだ。

 あまりにも少ない、ジーちゃんの身の回りの品。

 少しの下着と、少しの見舞いの品。

 それだけだった。



「………え?」

 看護婦さんが驚いた響きで呟いた。

 なんか可笑しい。

 俺の家族なんかより、よっぽど悲しんでいる気がするぞ。

 そんなことが可笑しくて。

 悔しくて。

「最後を……ジーちゃんの最後を見取って頂いて、本当にありがとう。……ジーちゃんを慈しんでくれて、本

 当にありがとう♪」

 家族ですら出来なかった事。

 全然他人がしてくれた。

 職業だから………そう言うことも出来る。

 でも……違ったと思う。

 一寸前の俺なら、そんなことを考えもしなかっただろう。

 だが……ジーちゃんが教えてくれた。

 手の中にあるガラス箱。

 その中にある、小さな紙の束。

 教えてくれた。

「ジーちゃんは、最後まで笑っていられました。それは皆さんのお陰なんです」

「……………」

 看護婦さんが小さな手で顔を覆った。

 本当は俺も泣きたかった。

 でも、泣けない。

 泣かない。

「本当にありがとう♪」

 俺は再び頭を下げる。

 心から感謝できる自分が、ちょっとだけ誇らしい。

 ま、それもジーちゃんが教えてくれた。

 何も言わずに、看護婦さんも頭を下げてくれる。

 俺はそれ以上何も言えなくて、無言で背を向けた。

 俺には、もう少しだけやることが有るから。

 でも……本当にありがとう。

 ………あ、電話番号とか聞くの忘れちゃった。

 看護婦さんの。

 考えてみたら、名前も知らないな、俺。

 でも、まあ……良いか♪























「………はぁ………はぁ……」

 俺は笑う膝を押さえながら、急すぎる坂道を登って行く。

 薄れた記憶の中に有る、ジーちゃんの故郷。

 今はもう何もないはずだ。

 なんだってジーちゃんは、こんな所に土地持ってたんだろう?

 最後まで手放さなかった、唯一の土地。

 資産価値も無いに等しいんで、親戚も俺の相続に意義を唱えなかった。

 現金な奴等だぜ。

 ジーちゃんが亡くなってから、一ヶ月。

 色んな事が………有った。



「くっ……は………はぁ……はぁ………」



 もう、俺のことを考えてはくれないジーちゃん。

 でも、それでいい。

 あとは自分の事だけ考えてくれれば。

 色々なことを教わったしな。

 背中に背負ったナップザックが、肩に食い込んでくる。

 カメラの入ったバッグ。

 俺の愛機だ。

 いつか、強い写真が撮りたい。

 そんな風に思える。

 靴の中では、俺の足が汗で滑り出してきた。

 靴のサイズが合わなかったかな?



「………はぁ……はぁ……はぁ……」



 もう直ぐだ。

 もう直ぐ竹の道が開けて、あの場所に着く。

 微かな記憶の中にある、あの場所。

 それにしても………喉渇いた。

 まさかバス停からここまで、自販機のイッコも無いとは思わなかった。

 無闇やたらな田舎に乾杯♪

 そして……このままで残してくれたジーちゃんにも感謝♪



「はぁ……はぁ……はぁ、はぁ……」



 ビール飲みてー。

 キンキンに冷えたビールが飲みてー。

 日本酒でも可。

 冷でお願いします♪

 乾いた喉がひり付く。

 背中も痛いし、脚も痛い。

 なんで俺、こんな事してんだろ?

 ………自己満足?

 だろうなぁ。

 でも、俺はそうしたかった。

 誰の為でもなく。



「はぁ、はぁ、はぁ……はぁ、はぁ……」



 手に持った、小さなガラス箱。

 中にはジーちゃんの作ったひなげし。

 ひなげしと称された紙の束。

 きっと誰が見ても、ひなげしなんかには見えないだろう。

 俺以外は。

 本当はずっと持って居たい。

 でも……それは甘えているから。

 俺もジーちゃんのように強くなりたいから。



「………あっ!?」



 ようやく竹の繁る道が開けた。

 小高い丘の上。

 心地良い風が、汗ばんだ俺に吹き付ける。

 風に揺らされる笹の葉の音が心地良い。

 眼下に広がる一面の草むら。

 本当は一面ひなげしとかだったら、絵になるんだろうな。

 でも、現実はなかなかシビアだ。

 荒れ果てた草むらには……………あった!

 開けた土地の端っこに、ほんの小さな花一輪。

 ジーちゃんの好きだった花。

 薄いオレンジ色っつーか、なんつーか。

 でも……ジーちゃんが好きだったのが解る気がする。

 ただの草花。

 でも……本当に力強くて。



  あれからも、色んな事有ったよ、ジーちゃん。

 怒りや悔しさで、泣きそうな時も有った。

 でもね……でもね、ジーちゃん。

 俺、笑ってたよ。

 ジーちゃんみたいな強い男になりたいから。

 腹に力入れて、ぐっと堪えたよ。

 だから今日、ここまで来れた。



  俺はガラス箱の中から紙の束を出して、空中に放り投げた。

 本当は、ずっと持っていたい。

 でも、それは甘えだから。

 頼ってはいけないから。

 それじゃ俺は、ジーちゃんみたいに強くはなれない。

 強ければ良いって訳じゃないだろう。

 でも……俺は強くなりたい。

 あのジーちゃんのように。

 だから俺は今日、ここに返しに来た。

 ひなげしの花の元に。

 ジーちゃんの心が帰った、この土地に。

 ジーちゃんに教えてもらった強さだけが、俺が貰った小遣い♪

 ずっと持っていく俺の小遣い。

 泣きそうな事とか、悔しい事とか、この先も有るだろう。

 俺もいきなり強く成るわけじゃないしな。

 そんな時……この地を思い出そう。

 ひなげしの花の傍に立っているジーちゃんとバーちゃんを思い出そう。

 ジーちゃんが笑っている気がする。

 なんや、まだまだ頼りないなぁって。

 傍らにはバーちゃんも立っているような気がする。

 微笑んで。

 あんな強い笑みを浮かべられる人に成りたい。

 あんな優しい笑みを浮かべられる男に成りたい。

 そう思う。

 目の前で、ひらひらと落ちていく紙の束。

 ジーちゃんの好きだったひなげし。

 

 









「………来たよ………ジーちゃん………」

















 END





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